哲学、経営などについて

water castle philosophy

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ヤスパースとレヴィナスにおける、自己と他者との関係

更新日:


この論文では、自己と、他者との関係を、
1,横方向の対等な関係とみるか、
2,縦方向の関係とみるか
 について検討している。
 結論的には、どちらも真実の一面だと思う。
 19-20世紀の重要な哲学者であるヤスパースとレヴィナスの叙述を通じて、上記を分析する。

人と人との関係の本質について、理解を深める一助となればと思います。

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論文題目:ヤスパースとレヴィナスにおける、自己と他者との関係

(2001.1)

広島大学大学院社会科学研究科国際社会論専攻(比較哲学)

藤枝貴志

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以下、論文要旨。その後、全文を掲載しています。



【論文要旨】



序論



 本論文の目的は、ヤスパースとレヴィナスそれぞれの思想における、自己と他者との関係を、分析し比較し、両者の共通点と差異点を確認することである。ヤスパースにおける自己と他者との関係は「実存的交わり」を軸としたもので、これについては、主に彼の主著『哲学』(Philosophie I-III. 1933、以下,PhI-III.)に基づいて、第三章で扱う。レヴィナスにおける他者との関係については、彼の第一の主著『全体性と無限』(Totalite et Infini. 1960、以下、TI.)に基づいて、第二章であつかう。おおまかな特徴をいえば、ヤスパースの場合は、他者との関係が平等なのに対して、レヴィナスの場合は他者が絶対的優位の立場にある。

 しかしまた、ヤスパースは『戦争の罪を問う』(die Schuldfrage. 1946、以下、Sf.)の叙述においては、他者との関係において、レヴィナスに似た構造を持っているので、それを先ず第一章で、概略を述べつつ検討する。その後、第二章でレヴィナスの他者との関係について述べつつ、第一章のヤスパースの構造との比較を行うことになる。その後、第四章でヤスパースとレヴィナスの思想について、より踏み込んだ観点から、いくつかの分析を行う。最後に第五章でまとめをする。



 ヤスパースの『戦争の罪を問う』において、他者に対する責任が発生する源は、実存的交わりにおいて結んだ親密な他者との関係を、他の多くの他者とは未だ結んでいないというところにある。そして、この責めの意識は、一般的には説明しがたい意識であり、真に人間としてあるかぎり、生まれながらにして持っている責めの意識である。

a 道徳的、形而上学的罪は生涯、償われないこと。

b 「たえず自己自身になろうという内的な過程」である(実存の変容)

c 「自我」が砕かれる、自由になる



 レヴィナスの思想における他者との関係を概観し、ヤスパースの『戦争の罪を問う』と比較すると、両方に共通する点として、以下のものが指摘できる。

1、他者の絶対的優位性(常に自己は負い目がある立場)

2、他者への無限責任

3、無限責任を果たそうとすることを通じて、自己中心的な自我が砕かれ、真に自我が定立される。そこに救いがある。



 ヤスパースの実存的交わりの特徴は、親密な2者間に限られた関係であること、2者間の同等性が交わりの前提であること、などがある。この点では、先に見たレヴィナスと対照的である。



 このような差異が出てくる原因の一つには、両者の神観の相違がある。レヴィナスの場合、他人と神が直結しているので、他人が必ず上位にくる。ヤスパースの場合、神の下での平等という思想に基づき、他人との関係は根本的に平等である。

 また、ヤスパースの実存的交わりの親密な関係は、複数の人間の社会的関係の前提となるべき次元の他者との関係をさしており、レヴィナスの他者との関係は、最初から直接的に、社会的関係が如何にして可能か、という観点に絞られている、という違いが、根底にあると思われる。



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(以下、論文の全文)



論文題目:ヤスパースとレヴィナスにおける、自己と他者との関係



藤枝貴志



(2000.1)



◆目次



序論



第1章 ヤスパースの『戦争の罪を問う』に関して



1.1 罪の四つの区分

1.1.1 刑法上の罪

1.1.2 政治上の罪

1.1.3 道徳上の罪

1.1.4 形而上的な罪

1.1.4.1 罪の発生源

1.1.4.2 審判者としての他者・神

1.1.4.3 道徳上の罪と形而上的な罪との区別について

1.2 罪の清め

1.2.1 実存変容としての清め

1.2.2 特徴

1.3 民族の罪について

1.3.1 民族の罪と政治上の罪の区別

1.3.2 責めを負う共同体。民族から人類へ

1.3.3 混乱状態をチャンスとして



第2章 レヴィナスの思想における他者との関係



2.1 ヤスパース『戦争の罪を問う』と、レヴィナスとの共通点

2.1.1 他者の絶対的優位性、同時に、まったき弱者としての特徴

2.1.2 責任の性質:この責任は決して償われないこと、生まれ出た限りの負い目であること。またそれは応答責任であること。それによる自我の定立。

2.1.3 我意がないことで自我が確立され、そこに救いがあること。(我意がなく、ただ他のために在るという喜び)

2.1.4 まとめ

2.2 レヴィナスにおける二種類の他者

2.2.1 分離における女性

2.2.2 審問する他者の迎接



第3章 ヤスパースの実存的交わり



3.1 交わりの過程全体

3.1.1 自己が他者へ向かう動機について

3.1.2 交わりの過程

3.1.2.1 関係の相互性の問題

3.1.2.2 一義性、多義性。相互公開について

3.1.2.3 愛しながらの闘い(Liebender Kampf)とは

3.1.3 交わりの実現

3.1.3.1 垂直の出会いと水平の出会い

3.1.3.2 愛は、関係が達成されて初めて、明らかになる

3.2 他者との同等性

3.3 まとめ



第4章 様々な局面からの比較



4.1 神について

4.1.1 神秘主義の克服

4.1.1.1 レヴィナスの神秘主義克服の道

4.1.1.2 最終的境位としての対面

4.1.1.3 言語に基づいた倫理的な対面関係

4.1.2 他者と神。ヤスパースの神の下での平等。レヴィナスの他者と直結した神。

4.2 親密な二者間の閉ざされた関係と、開かれた社会的関係

4.3 死について

4.3.1 自己の死

4.3.2 他者の死

4.4 責任について

4.5 例外と犠牲について

4.5.1 自己反省によって、例外でありうる

4.5.2 例外の真理のありかた

4.5.3 犠牲と援助

4.6 ニヒリズムと他者

4.6.1 ヤスパースの場合

4.6.2 レヴィナスの場合

4.6.3 まとめ



第5章 まとめ



5.1 共通点

5.2 差異点

5.2.1 レヴィナスの一方性

5.2.2 親密な他者と、社会的他者という違い

5.2.3 最終目標の差異



◆凡例

・言いかえ・出典・原語は( )内に、補説や注釈は [ ] 内に記す。

・原文での強調箇所は傍点を振った。

・略号は以下のとおり。

Sf,   die Schuldfrage, 1946  (K.Jaspers)

PhI-III,   Philosophie I-III, 1933  (K.Jaspers)

TI,   Totalite et Infini, 1960  (E.Levinas)

VdW,   Von der Wahrheit, 1948  (K.Jaspers)

それぞれ、初めに原著のページを、スラッシュ "/" の後に翻訳のページを掲載する。基本的に翻訳どおりだが、適宜訳し直した。





序論



 本論文の目的は、ヤスパースとレヴィナスそれぞれの思想における、自己と他者との関係を、分析し比較し、両者の共通点と差異点を確認することである。ヤスパースにおける自己と他者との関係は「実存的交わり」を軸としたもので、これについては、主に彼の主著『哲学』(Philosophie I-III. 1933)に基づいて、第三章で扱う。レヴィナスにおける他者との関係については、彼の第一の主著『全体性と無限』(Totalite et Infini. 1960)に基づいて、第二章であつかう。おおまかな特徴をいえば、ヤスパースの場合は、他者との関係が平等なのに対して、レヴィナスの場合は他者が絶対的優位の立場にある。

 しかしまた、ヤスパースは『戦争の罪を問う』(die Schuldfrage. 1946)の叙述においては、他者との関係において、レヴィナスに似た構造を持っているので、それを先ず第一章で、概略を述べつつ検討する。その後、第二章でレヴィナスの他者との関係について述べつつ、第一章のヤスパースの構造との比較を行うことになる。

 第一章で『戦争の罪を問う』、第二章で『全体性と無限』、第三章で『哲学』をそれぞれ扱いつつ、同時に相互の比較も行う。その後、第四章でヤスパースとレヴィナスの思想について、より踏み込んだ観点から、いくつかの分析を行う。最後に第五章でまとめをする。



第1章 ヤスパースの『戦争の罪を問う』に関して



 ヤスパースはドイツの敗戦直後、一九四五年から四六年にかけての冬学期、ドイツ人の罪をテーマとした講義を行った。それを整理した著作が "die Schuldfrage. 1946"(邦訳『責罪論』理想社、1965、橋本文夫訳。一部改訂『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー、1998)である。ドイツの国民・民族としての責任について、外国人からもドイツ人からも様々に議論されていた時に書かれたものである。

 本の内容は、先ず目安として罪を四つに区分し、どのようなものとしてそれらの罪を受け止め、そこから何を学び、未来に生かしていくかを説くものである。哲学の専門的な議論ではないが、交わり、対話の精神、限界状況としての責め、など、彼の哲学的精神の応用といえる要素が多く含まれている。

 この著作では、Schuld(責任・罪・負い目)をキーワードに、他者との関係が描かれているといえる。その場合、他者は、それに対して責任を負っている他者であったり、また、共に責め・負い目を分かち合う人たちであったりする。

 先ずはキーワードである、Schuldについての彼の四つの区分についてみていくことにする。



1.1 罪の四つの区分



1.1.1 刑法上の罪(Kriminelle Schuld)



 刑法上の罪は法によって責任を問われる罪である。「刑事犯罪は明白な法律に違反する客観的に立証し得べき行為において成立する。審判者は正式の手続きを踏んで事実を信頼するに足る確実さをもって確定し、これに法律を適用するところの裁判所である」(Sf.21/48)と言われている。例えば、戦犯はこれにあてはまる。明確な「法」によって責任を問われ、刑に服す。



1.1.2 政治上の罪(Politische Schuld)



 政治上の罪は、国家の保護下にあり、その構成員である国民である限りにおいて問われる責任、罪、である。

 「この罪は為政者の行為において成立し、また私が或る国家の公民であるために、私の従属する権力の主体でありかつ私の現実生活の拠って立つ秩序の主体であるこの国家の行為によって生ずる結果を私が負わなければならないという場合に、その公民たる地位においてこの罪が成立する。すべての人間がどのような支配を受けるかは、本人の責任でもある。」(Sf.21/48-9)

 具体的な償いとしては、戦後の戦勝国への、賠償などにより、国民全体が苦難を通過し責任を払うことになる。



 刑法上の罪と政治上の罪には、外から課される法的な刑の履行の責任(Haftung)が課され、それに対して具体的に、刑に服するとか、苦難を通過するということで、全うされるものであり、それ以上責任は問われない。

 しかし、以下に見る道徳上の罪と形而上的な罪は、他者が責任を問うことはできない。あくまでその個人による自覚に任せられている道徳的・内面的な罪である。その点で刑法上の罪、政治上の罪と区別される。

 だから、刑法上の罪、政治上の罪が成立しても道徳上の罪、形而上的な罪が成立しない合がある。例えば、道徳的に罪が無くても、起こった結果に対しては法的責任を負わなければならない。「(法的)責めを負わせる(Haftbarmachen)ということは、道徳上の罪がある(moralisch schuldig)と認めることではない。」(Sf.45/94)

 また、「政治上の責めを負うことは、各個人にとっても、そこから生ずる恐るべき結果から見て、つらいことである。それはわれわれにとって完全な政治的無力を意味し、長期間にわたって飢餓と寒さと、あるいはほとんどそれに近い状態におとしいれられ、生きるためのしがない努力を強いられるといったような貧困を意味するのである。けれどもこのような責めを負うことそれ自体は、なんら魂に触れるものではない。」Sf.45/94-5)

 と、いわれている。

 もちろん逆に、こちらの方が一般的なのだが、刑法上の罪、政治上の罪が成立しなくても、道徳上の罪、形而上的な罪が成立する場合もある。



 道徳上の罪に移る前に、政治上の罪についてもう一歩踏み込んでおく。政治上の罪は、「個人は国家による保護下で生活できている」ということを、各個人が国家の罪に対する(外的)責任を負う理由としている。

 「生きる上に頼りとしている権力関係のなかに巻き込まれてしまっているということ(verstrickt zu sein in Machtverhaltnisse)が、人間だれしもののがれられぬ致命的な災厄(Verhangnis)である。これはすべての人間ののがれられない罪、人間としてのあり方の罪である(die Schuld des Menschseins)。正義ないし人権を実現するような権力のために献身的な努力をすることによって、この罪に対抗していくのである。」(Sf.23/52-3)

 国家の犯した罪に対する、外的な責任[債務、Haftung(損害賠償義務を課される行為者の立場)]が各個人に課せられるわけだが、その前提には、国家に対する各個人の責任、負い目といった、また別の意味での Schuld がある。それは、こうした社会的存在としてしかありえないという、「人間としてのあり方の罪(負い目)」である。この社会的存在であるという「負い目」によって、人間はその社会的に属する集団・国家と、切り離され得ないのであり、それゆえ、国家の犯した罪に対する賠償責任、債務、が生じてくる。

 この政治上の罪で、ヤスパースはあくまで政治的・法的問題として、個と集団との関係を問題としている。だから「国家」の問題なのであり、決して「民族」[血縁とか文化的共通性とかに基づく]を問題としているのではない。



1.1.3 道徳上の罪(Moralische Schuld)



 「私が結局はどんな場合にも私一個人としてなす行為について、しかも私のすべての行為について、したがって私の政治的および軍事的行為についても、私は道徳的な責任(Moralische Verantwortung)がある。「命令は命令だ。」ということは決して無条件には通用しない。命令された場合でも(危険、脅迫、恐怖の程度如何に応じて酌量すべき事情は容れられるが)、むしろ犯罪はどこまでも犯罪であるのと同様に、いかなる行為もまた道徳的判断にどこまでも服している。審判者(Instanz)は自分の良心(eigene Gewissen)であり、また友人や身近な人との、すなわち愛情をもち私の魂に関心を抱く同じ人間(Mitmenschen)との精神的な交流(die Kommunikation)である。」(Sf.21/49)

 道徳的罪とは、自分の、具体的行為に対して「道徳的良心」によって問われる罪といえる。たとえ刑法上の罪の場合のように、刑法により法的に裁かれたとしても、この罪はまた別に存在し、永遠に存続する。また明らかな犯罪的行為でも、法にあてはまらなければ、刑法上の罪として問われない(罪刑法定主義)。つまり他者が責めたりすることができない領域となる。つまり本人の良心に任せられる領域となる。

 審判者は自分の良心といわれている。また親密な人間との交流が良心の自覚を促す場合もある。自分の良心であるかぎり、この審判基準は各々でまちまちのレベルであると考えられる。良心は絶対的なものでなく、社会的にも形成されたものであろうから。後に見るレヴィナスのように、他者が審判者であるのではない。親密な人間との交流が[良心として]審判者となるばあいでも、親密な人間は、審判者としての他者とはむしろ逆の存在とも、いえる。

 この交流(die Kommunikation)は、後に第三章で扱うヤスパースの「愛しながらの争い(Liebender Kampf)」である「実存的交わり」のことを指している。

 「少なくとも愛しながらの争いというような連帯関係(die Solidaritat liebenden Kampfes)にあるのでなければ、他人の罪を認めるということはできない。自分が当の本人だといえるくらいの内面的な繋がりをもって人を裁くのでない限り、なんぴとも他人を道徳的に裁くことはできない。他人が私にとって私自身と同じように考えられる場合にのみ、結局は人間各自が一人きりで行うはずのことを、自由な精神的交流を通じて共同の任務たらしめるだけの近さがあるわけである。」(Sf.27/60)

 ヤスパースは他人の道徳的罪を問題とする場合には、深い愛による結びつきを前提条件としている。こう指摘することで戦後当時の、とげとげしく他人の道義上の罪を訴える状況に対して、戒めているわけである。このように彼は「互いに意見を押しつけないようにしよう」といいつつ、また一方で「とはいえ、力を合わせて真理を探究するからには、互いにいたわり合って遠慮したために制限が生じたり、好意的な沈黙や、欺瞞による慰めが行われたりしてはならない。発してはならない問いはない」(Sf.12-13/22)という姿勢を説いている。

 ここには「愛しながらの争い」(Liebender Kampf)と言われているように、相手を愛で受け容れ、信頼しあいながらも、相手の罪に関しては、自分も共同の課題として引き受けつつ、真理であるからには、相手が苦痛を伴おうとも、相手に自覚させ引き受させるという彼の思想が表れている。



1.1.4 形而上的な罪(Metaphysische Schuld)



1.1.4.1 罪の発生源



 形而上的な罪とは、「道徳的良心」よりもさらに奥深い意識を基準として発生する罪意識といえる。

 「そもそも人間相互間には連帯関係というものがあり、これがあるために人間は誰でも世のなかのあらゆる不法と不正に対し、…共同責任を負わされる(mitverantwortlich)のである」(Sf.21/49) といわれる。ここでいわれる責任が形而上的な罪のことである。

 先ずこの「人間相互間の連帯関係(Solidalitat zwischen Menschen)」について見てみる。この連帯関係は、実存的交わりによって初めて至高体験として達成され、理解される他者との深い連帯関係である。

 「形而上的な罪を最も深刻に意識するのは、ひとたび絶対的な境地に達し、しかもこの境地に達したがゆえに、むしろこの絶対的心境をあらゆる人間に対してまだ発動させていないという自己の無力さを感じさせられた人々である。[伝えて、人々の実存を変革させてあげられなかった責め]絶えず脈々と動いてはいながら具体的にはこれぞといってその正体を指摘することができず精々一般的に論ずるぐらいのことしかできないといった何ものかにともなう引け目(羞恥; Scham)が、依然として残るのである。」(Sf.22/51)

 「ひとたび絶対的な境地に達し」とは、おそらく彼の実存的交わりにおいて真の他者との深い連帯性の体験のことである。いわば具体的な至高体験が基準になっている。この点は、絶対的弱者としての他者との対面を原点とするレヴィナスとの差異があるように思われる。ヤスパースの場合、そのような弱者としての他者との対面以前に、他者との実存的交わりに基づいた深い連帯性の体験が不可欠なのである(しかしレヴィナスの場合も、後にみるように<家>において女性の他者による迎接の段階がある。それでも、この段階の重要性のインパクトは比較的薄く、やはり絶対的弱者としての他者との対面に何より重きをおいていると思われる)。ヤスパースは他者との関係の原型を、この章で確認するような責任問題、差異性の問題に基づいて論じず、他者との平等な愛の交わりにおいたのである。戦前も戦後も("die Schuldfrage" 以前も以降も。戦前の主著『哲学』でも、戦後書かれた第二の主著『真理について』でも)、他者との関係の基本形を、平等な愛の実存的交わりにおく姿勢は一貫して変わっていない。

 「人間相互の連帯関係」とか「絶対的境地」とか言われているものは、実存的交わりの思想の原体験である彼と妻ゲルトルートとの深い関係に根ざしている。このことは、はっきりとこの著作の中に認められる。「二人の人間のいずれかに対して犯罪が加えられるとか、二人が物的生活を共にしなければならないとかいう場合に、ともに生きるとか、あるいは死ぬかのどちらかしかないという絶対的な関係が、或る場合には二人の人間の間に通用するということが、かれらの本質性格の実体をなしている。」(Sf.22/50)

 彼は、ナチスから、ユダヤ人である妻との離婚を命ぜられ、それに抗して大学を退くこととなり、その後敗戦までの間、妻と共に、妻がナチスに連行されていくかもしれないことに、たえずびくびくしながらドイツで生活していた。その様子は自伝を編集した著作『運命と意志』(Schcksal und Wille.1967)に詳しい。その中で次のように言われている。(以下、日記の抜き書き)

 「1939.3.17 …だが私たちの行動の基本は、常に私たち二人が互いに離ればなれにならないということでなければならない。人種区分によって私たちを引き離そうとするような世界が私たち二人の間に侵入しないということ、また私たちは絶対的な連帯をもったものであって、いくつかの条件の下で連帯を保っているのではないということが基本でなければならない。」(249頁)

 「1940.11.16 しかし私は、彼女が私を置いて死んでゆくことには堪えられない。彼女を死へと追いやる権力は私をも殺すことになる。私たち二人のこのつながりは絶対的なものである。」(256頁)

 「1942.5.2 ゲルトルートを暴力から守ってやることができない場合には、私もまた死ななければならない。ーこのことは、男性の純粋な品位に属することである。… 心の深みから静かで信頼できる声が、私は彼女のものだと語りかけてくる。人間の意志(それは自然ではない)が私たち一方を襲って滅ぼす場合には、私たち二人が襲われているのだと考えることは神意にかなうことである。永遠に相互に結合されているもの、お互いのために一つの根源から生み出されたものが、生きている間に暴力で切り離されることはありえない。」(260頁)

 そして「しかしこのことがあらゆる人間の連帯性によるのでもなければ、国家の公民の連帯性によるのでもなく、ましてそれ以下の小集団の連帯性によるのでもなく、きわめて緊密な人間的結合にだけ見られるということが、われわれすべての人間のもつこうした罪の生ずるもととなるのである。」(Sf.22/50)と言われる。ここにおいてレヴィナスとの差異は、際立っている。レヴィナスはそこまで「きわめて緊密な人間的結合」を強調しないだろう。

 「実存的交わり」とこの形而上的な罪との関係については、以上見てきたことから、実存的交わりの実現の体験が、この罪意識の生起の原因となるという関係があるといえる。形而上的な罪の場合は、道徳上の罪の場合のように、実存的交わりの過程が、相手にこの罪を自覚させる、というわけにはいかない。



1.1.4.2 審判者としての他者・神



 形而上的な罪では、「審判者は神のみである」(Instanz ist Gott allein)(Sf.22/50)と言われている。レヴィナスにしても他者とは、現前する他人ではあるが、あれこれの心理状態を持った被害者としての他人ではない。例えばある他人は、私に「謝罪してほしい」と思っているかもしれないし、「謝罪してもらっても失われたものはどうにもならない」と思っているかもしれないし、「これを機に悔悛して生まれ変わってほしい」と思っているかもしれないし、「殺したい」「恨み続けてやる」と思っているかもしれない。ヤスパースにしてもレヴィナスにしても、具体的な他人の心理状態は問題とならない。そのような「他人」は審判者とはならないのである。

 その意味でレヴィナスの審判者としての他者とは、具体的な他人ではなく、むしろ神的な存在となのであり、実際、神のことなのかもしれない。



1.1.4.3 道徳上の罪と形而上的な罪との区別について



 形而上的な罪は、道徳上の罪が、自分の具体的行為に対して問われるのと違い、自分の行為云々に拘わらず、実存的交わりを知った者として、すでにして生きている限り、負っているような責め、負い目なのである。

 自分の個別的な行為に関わらず負っている責めとして、先に政治上の罪の箇所で見た「社会的存在としての負い目」と共通する点があるが、より内的なものである。

 また別の言い方をすれば、道徳的のレベルが、世界内の目的実現を最終的基準としているのに対し、形而上的のレベルは文字どおり形而上的(meta-physisch)なものが基準となっていると言える。

 例えば、次のように言われている。

 「私が他人の殺害を阻止するために命を投げださないで手をこまねいていたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが[もしその他人が妻なら彼は命を投げ出して止めようとしたであろうから]、この罪は法律的、政治的、道徳的には、適切に理解することができない。」(Sf.22/49-50)

「しかし生命を犠牲にしたところで何の目標も達せられないことが明らかに分かっている場合には、道徳上からは生命を犠牲にせよという要求は成り立たない。…それは現実世界内部で設定される目的からみて無意味なことは避けて、現実世界における目的実現のためにおのれの一身を全うせよということである。

 けれどもわれわれの心のうちには、これとは別な源泉をもった罪の意識がある。形而上的な罪とは、いやしくも人間との人間としての絶対的な連帯性が十分にできていないということである。」(Sf.52/110)

 世界外的なところまで、つまり、死を越えてまで、実存的な愛の交わりは結びつくことを要請する。そのような人間同士の結び付きが、あらゆる個々の人間と、できつくしていないことに対して負う責めなのだから、生きている限り背負いつづける責めであるわけである。

 またこの道徳上の罪と形而上的な罪との区別は、彼の実存的交わりの至高体験だけでなく、ヤスパースの具体的な戦争体験にも基づいていると思われる。つまり、自分の周りのユダヤ人たちが強制収容所へ移送されていくのを、無意味と分かりつつも命がけで止めようとしなかったことを通じて、感じたヤスパースの直接的な罪意識の体験も大きな要素だっただろう。このような事態(ナチス独裁)になる前に、私には何も尽くす手はなかったのか、何のために今まで生きてきたのか、と感じただろう。「そんなことが起こった後に、まだ生きている、ということが拭いがたい負い目として私にのしかかる(Dass ich noch lebe, wenn solches geschehen ist, legt sich als untilgbare Schuld auf mich.)」 (Sf.22/50)とも言っている。 

 自己の行為にかかわらず背負う、他者に対する負い目、これが後に見ていくレヴィナスとの最も重要な共通点といえる。つぎに「罪の清め」について見ておきたい。それによって、さらにいくつかの共通点が確認できると思われる。



1.2 罪の清め(Reinigung)



1.2.1 実存変容としての清め



 普通、罪の償いにはマイナスイメージが伴う。確かに法的に刑に服したり、戦後賠償のために経済的困窮を強いられるのは外的に苦しいことである。しかし罪を償うことは、単に、それによって、罪を犯す前の時点の状態に戻ることではない。

 償いは、罪を背負う行くという形になるのだが、「われわれが一生涯背負って歩く重荷、その重荷を通じて、われわれは、こよなく貴重な宝すなわち我々の永遠の本質を成熟の域に達せしめるべきなの」(Sf.59/127)である。

 また、「道徳上の罪と形而上的罪とは、…罪滅ぼしということがない」のであり、それを担う者は「生涯終わることのない過程に足を踏み入れるのである」(Sf.84/181)。

 それは根本的な実存変容の道なのである。

 つまり、具体的な罪をきっかけとして、人間としての在り方[社会的存在として担う国家に対する責任[政治には無関心でいられないこと]、道徳的罪としての自己の弱さ、形而上的罪として人類全体に対する根本的責任]に気付き、「人間とは何か」をはるか彼方に洞察し、それを自己変革へと生かしていくことを、ヤスパースはこの清めに関する章で説いているのである。



 ヤスパースが清めに関して述べているものの中で、やはり一番のメインは、形而上的罪の清めのことである。罪はいくら重く私にのしかかり、永久に消えないといっても、私を押しつぶしてしまう訳ではない。罪は、私の持っていた余計なもの、傲慢な心、不純な心、それらを自覚させてくれた。その後にも、私が生きていこきうるとするなら、それはそれらの不純なものが、清められた存在として生きていくこと以外にないだろう。

 「…完全な敗戦状態にあって死よりも生を選ぶ者葉、生きようとする決意がどのような意味内容をもつかということを意識しながらこうした決意に出るのでなければ、今やおのれに残された唯一の尊厳ともいうべき真実の行き方をすることができないということである。」(Sf.78/167)

 アウシュビッツ以降、ヒロシマ以降、人間がそれでもなんらかの尊厳をもって生きていきうるとするなら、それはどのような在り方なのか。それをヤスパースは描いているともいえる。戦後、罪意識にまみれたルサンチマンに陥るか、罪を引き受けることを拒否して居直るか、どちらかに陥ることの多かった日本人にとっても、彼のこの著作は、多くの示唆に富んでいるといえる。実際、日本の状況にとって、この著作からは何が学びうるのか。刑法上の罪と政治上の罪は、外的に実際に法に服せばよいことであり、とりあえずは完了しており、中心問題にはならない。中心的問題となるのは、道徳上の罪と、形而上的な罪である。そのレベルの罪を、公開性に基づいて、親密な愛の実存的交わりの中で、相互了解し、引き受けていくことができなかったことに何よりの問題があるのである。結局、戦争責任の問題においても、実存的交わりの可否が第一の課題となるのである。

1.2.2 特徴



 罪の清めに関し、ヤスパースが述べている事柄は以下のa~cの三つにまとめられると思われる。

a 道徳的、形而上学的罪は生涯、償われないこと。

b 「たえず自己自身になろうという内的な過程」である(実存の変容)

c 「自我」が砕かれる、自由になる

 aに関しては「道徳上の罪と形而上的罪とは、…罪滅ぼしということがない。…これを担う者は、生涯終わることのない過程に足を踏み入れるのである」(Sf.84/181)。と言われている。

 bに関しては「清めは外部的な行為によってまず行われるのでもなければ、外部的な処理によって行われるのでもなく、魔術によって行われるのでもない。むしろ決して鳧のつくことのない、絶えず自己自身になろうという内面的な過程なのである。清めはわれわれの自由に依存する任務である。人間は誰でも清浄となるか、汚濁に走るかの岐路に立っている。」(Sf.86/185)と言われている。

 cに関して。罪の深い内面化から、砕かれた魂へという過程をとることについて、以下のように述べられる。

 「罪の意識をもたなければ、あらゆる攻撃に対するわれわれの反応は、依然として反撃の形をとるのである。これに反して内面的な揺さぶり[本質的な変容]を経験したあとでは、外部的な攻撃は今はただわれわれの上つらを掠めるだけである。…

 罪の意識が真におのれの意識となっていれば、間違った不公正な非難には平然として堪えられる。それは尊大な気持ちと横柄な気持ちとが消えてしまったからである。」(Sf.87/187)

 罪の深い自覚のなかで、純化された自我、砕かれた<自我>には、ただただ他者、人類に対して果たすべき、深く澄みきった責任感だけがあるのであり、雑多な情念に振り回されることがない。ゆえに「清めを経て初めて、いかなる事態に対する心構えをもなし得る自由を得ることができる」(Sf.87/188)と言われる。



1.3 民族の罪について



 以上で、大筋は論じ終えたが、いくつか細かい点について見ておく。

 罪についてもう一度整理しておこう。刑法上の罪と政治上の罪は外的、道徳上の罪と形而上的な罪は内的。また、刑法上の罪と道徳上の罪は関わった当事者個人において問われる罪であり、政治上の罪と形而上的な罪とは直接的に関わらなくても、何らかの形で関わっているゆえに、集団(国家、人類)に属する限り問われる性質の罪といえる。

 ここまで形而上的な罪を中心に見てきたが、この本の議論の焦点は、政治上の罪である。ドイツ人全体というものの責任はあるのか、である。



1.3.1 民族の罪と政治上の罪の区別



 民族としての罪は、政治上の罪の箇所で少し触れたように、政治上の罪と混同してはならない。同じ民族であるからという理由で、国家の債務にたいする負い目は生じないのであり、あくまで、国家に属して保護されてある、という、政治的・社会的存在という人間の不可避的なあり方ゆえに生じる、きわめて冷静に、外的に問われている事柄なのである。

 同じ民族ゆえに、言語を同じくするとか、文化的伝統背景を同じくするとか、同じ血縁にあるとか、そういったことは、当然問題外なのである。人間は倫理・道徳に関しては個人的存在として扱われるべきである。

 だから、被害者は「国家」を責めても(そしてそれは法的に賠償されて済まされたことになる)「民族」を責めることはできない。

 たしかに、被害者はやり場のない恨みを何処へ向けたらいいのか、という現実問題はある。ドイツ民族全体、日本民族全体に向けられる、被害者の恨み。それは間違った考え方だと、加害者側が主張することはできない。しかしこの点について、ヤスパースは著書を通じ理性的に整理することで、様々な恨みを持った被害者の、一人一人の幅広い理性に間接的に訴えているわけである。



1.3.2 責めを負う共同体。民族から人類へ



 ヤスパースの場合、この著作においては、罪を負う自己と、自己がそれに対して負い目あるところの他者との関係にはそれほど焦点が置かれていない。この点でレヴィナスとは対照的である。むしろ共に責めを負う、任務を負う、人間同士の共同体に焦点が置かれている。

 人間・人類としての責任も、民族としての責任の延長として考えられている。共に精神的交流を通じて通じ合い、人類に対する責任、任務を負っていこうとする者たちの共同体としての他者との関係に焦点が置かれている。彼にとって親密な民族共同体とは、人類共同体の縮図、あるいは練習場としての「学校」なのである。

 人類共同体という、直接的には近寄りがたいものは、民族的自覚を介して近づきうるものとなる。

 先に論じたように、形而上的罪は人類全体に対して感じる、私自身の罪意識、負い目意識、その実現のための責任意識である。この場合、人類全体の共同体が「神の御前でのすべての人間の集団的結合」(Sf.54/117)にあたる。この形而上的負い目は、個人的な深い実存的交わりの体験に根ざすものであった。

 だがまた、ヤスパースによると、形而上的負い目の自覚は、民族としての集団の罪の自覚によって促進され、また具体化されるという面もあるのである。

 「集団の罪を感ずるがゆえに、われわれは根源に立脚して人間的なあり方を革新し建て直そうという使命を全的に感じている。この使命は地上のすべての人間のもつ使命ではあるが、或る民族がみずから犯した罪のために虚無の前に立たされたときなどは、この使命が一層緊急、切実の度を加え、一切の存在のあり方を決定するかに見えるのである。」(Sf.58/126)

 そしてまた、この民族としての罪の自覚は、個人の罪の自覚によって初めて行われる。

 「歴史的な反省を通じての民族としての自己照破と、個人の人格的な自己照破とは、別物のように考えられる。けれども前者は後者を経て初めて行われるものである。個人が互いに精神的交流を通じて行うところのものは、それが真実であれば、多数者の全般的な意識となることができ、そうなればそれが民族の自己意識と見なされるようになる。(Sf.74/157)

 このように、個人の罪の自覚から、民族としての罪の自覚に至り、その民族としての罪の十分な自覚が、形而上的な罪の自覚に繋がるという流れがある。しかし何度も繰り返しヤスパースが指摘するように、他人が民族としての罪を論じることはできないのであり、あくまで個々人の自覚のレベルで、民族の一員としての罪の自覚が問題となっているのである。しかしまた、実存的交わりという親密な関係を前提として、民族としての罪意識が伝えられることはあるのだろう。



 民族としての罪や道徳上の罪を、ドイツ人がドイツ人に、愛情無くただ外的に非難をすることに対しては、ヤスパースは警告した。しかし(当然だが)被害者側が、ドイツ民族に(法的制裁以上の)道徳的罪を責め立てることに対しては直接は警告したりはしなかった。しかし、見つめるべき目標を明確に示し、また歴史を越えて広い視野で、両者の立場に立ちながら反省をするということを、著書を通して間接的な仕方で促した。またそれだけのことをする資格を、自己の徹底的に開かれた謙虚な姿勢を貫くことで、自己に与えることができた。そのような、徹底的に開かれた謙虚さで、一つ一つ整理して提示する、理性的態度が如何に有効かを示した。そのようにして、最終的には、民族としての罪を越え、ドイツ側、戦勝国側、双方に反省を促し、自己に立ち返らせることを目指したのである。



3.3 混乱状態をチャンスとして



 この著作自体、敗戦直後の講義である。そもそも普遍的な罪を扱うところに主眼があるのではなく、敗戦国家ドイツの罪についての本なのである。敗戦を共に通過した同じ民族としてのドイツの罪が問題なのである。とりわけ一人一人が、罪を突きつけられた機会だったのである。ナチに直接的にか間接的にか加担するという形で、あるいは同じ民族であるという形で、あるいはそんなことの後でもなお生きているという形で、さまざまな形ではあるが、それぞれが罪を突きつけられた機会であることには変わりがない。この類い希な機会を、個々の実存的変容へとつなげていかなければならない、というのがヤスパースのねらいだった。

 そしてまた、ドイツ人同士が、積極的にナチに賛同した加害者であり、また同時に騙された被害者でもあり、一方ではユダヤ人やユダヤ人を友とするドイツ人は彼らに迫害され殺された被害者でもあり、そういう様々な立場が混在する状況だった。それぞれが互いにあまりにも異質だった。むしろだからこそ、対話の必要性、一切を相互に腹蔵無く公開する精神、他者の前に自己を引き渡しさらけ出す謙虚さ、(その謙虚さも、一切の理念も、最愛の人も失った、放心状態、一種のニヒリズム状態だからこそ、傲慢な心を持ち得ない状況だからこそ、可能でありえた) 何の理念も固定的な中心もなく、ただただ公開性において語り合うチャンスであると考えたのだろう。



第2章 レヴィナスの思想における他者との関係



2.1 ヤスパース『戦争の罪を問う』と、レヴィナスとの共通点



 以下、レヴィナスに沿って見ていく。最初に述べたように、レヴィナスの思想の特徴を、他者の絶対的優位性に置く。この特徴を軸として、以下に、幾つかの点を挙げる。これらの点に絞って、レヴィナスの思想を見ていくことになる。

1 他者の絶対的優位性、同時に、まったき弱者としての特徴。

2 責任の性質:この責任は決して償われないこと、生まれ出た限りの負い目であること。またそれは応答責任であること。それによる自我の定立。

3 我意がないことで自我が確立され、そこに救いがあること。



2.1.1 他者の絶対的優位性、同時に、まったき弱者としての特徴



 レヴィナスにおいて他者と自己との関係は、不平等であり他者が絶対優位にある。「<自我>と<他人>との連関は互いに超越的な二つの項の不等性のうちで始まるのである」(TI.)と言われる。これは倫理における不平等性である。例えば、以下のような状況があるとする。私と他者、どちらか一方が死ねば、もう一方は生き延びることができる。両方生き延びることはできない。どちらが死ぬかの選択は、私に委ねられているとする。この場合、どちらが生き残るに相応しい有能な人間かなどということは考慮の対象とはならず、他者を生かし、自分は死ぬという選択をするだろう。倫理における不平等性とは、例えばそのような意味である。しかしレヴィナスにおける不平等性とは、それだけでは言い尽くせない。

 レヴィナスにおける他者との関係は、何より他者の他性、あるいは外部性を第一とする。例えば次のように言われる。

「われわれの世界のうちにいかなる準拠物も見出すことのない外部存在のこのような現前ーーわれわれはそれを顔と呼んだ。…(中略)…それでもなお視覚は外部性を測ろうとするのだが、このような視覚と合致することのない外部性の横溢が、ほかでもない高さの次元を、外部性の神聖さを構成するのだ。神聖さは隔たりを保持している。」(TI.272-3/454-5)

 他者は私にとって、高さの次元、であり、神聖さ、である。

 また他者は、私に対して、一方的に命じるのであり、私はそれに応える、ということができるだけなのである。他者はこのように私にとって強者なのだが、それだけなら私を暴力的に圧殺するだろう。他者は同時に、全き弱者でもある。

 「<他者>はその超越によって私を支配する者であると同時に異邦人、寡婦、孤児でもあり、私はこのような<他者>に対して責任を負うているのだ。」(TI.190/328)

 そして、全き弱さの中でこそ現れる強さであるからこそ、純粋な強さ、高さを形成するといえる。



2.1.2 責任の性質:この責任は決して償われないこと、生まれ出た限りの負い目であること。またそれは応答責任であること。それによる自我の定立。



 このような全き弱さの中で現れる、絶対的な高さとしての他者は、私に一方的に呼びかけてくる。私はそれに対し、応答するという責任を果たす選択しか残されていない。これは生まれ出た限り、避けて通れない責任、負い目といえる。比喩的に言えば、私は既に生まれる前に、「私は応答しますよ」と、自分から約束してしまっているのである。

 そして応答することによって初めて、私自身の自我が定立されもする。「…他者の本質的悲惨に応えること、他者を養うための資力を自分のうちに見いだすことによって、私は自我として定立されるからである。」(TI.190/328)と言われる。

 この応答はおそらく他者に届くだろう。その地点は、審判の場であり、真理が形成される場である。「真理はこの催告に対する応答のうちで形成される」(TI.222/379)と言われる。

 しかし、他者の呼びかけは一度で終わるのではなく、常に繰り返される。ゆえに私の責任も終わりがない。しかしこの無限責任の中でこそ、ますます私は私自身たりうるのである。そのことは以下の引用では「個別性の高揚」と言われている。

 「裁きにおける個別性の高揚は、裁きによって引き起こされる無限責任そのもののうちで生起する。」(TI.222/379)

 これら罪に関しての特徴は、先に見た『戦争の罪を問う』の罪の清めの過程と類似する。



2.1.3 我意がないことで自我が確立され、そこに救いがあること。(我意がなく、ただ他のために在るという喜び)



 2.1.2では、無限責任を果たす中で、自我が定立されることを見てきた。ここでは、その自我が、我意のないところで定立される自我であり、またそれが救いであることを確認する。以下、レヴィナスの<欲求(besoin)>と<欲望(desir)>の概念から考えてみる。

 自我は存在する限り、<欲求>する。つまり自分のために、他なるものを求める。そして獲得する。そこには喜びがある。しかし獲得すると同時にまた欠乏感を抱き、さらに欲求する。この原理は終わることがなく、欲求は満たされることがない。しかし欲求の原理自体を突破することにより、救いを見いだす道がある。それが<欲望>の原理であり、これは他なるものへ赴こうとする<欲望>である。これは欠乏ゆえに他なるものを求めるのではなく、むしろ満たされているがゆえに、与えたいがため、応答したいがために他者へ赴くのであり、これも終わることがない。

 <欲望>の原理により、<欲求>の原理に生きる我意を越えることができる。そこにおいて、あくせくした追い求め続ける原理から、救われる。

 決して償われない他者に対する無限の責任を、負おうとしていくところに、自己の救いがある。自己中心的な、全てのベクトルを自分の方へ向けるという生き方の逃れられなさから、他者は私の「外」から呼びかけ、私を救ってくれる。<他者>は、自我の膨張を防ぎ、出鼻を挫き、絶えず私を真の自我へと返してくれるのである。



2.1.4 まとめ



 ヤスパースの『戦争の罪を問う』とレヴィナスの『全体性と無限』における他者との関係について見てきた。両方に共通する点として、以下のものが指摘できる。

1、他者の絶対的優位性(常に自己は負い目がある立場)

2、他者への無限責任

3、無限責任を果たそうとすることを通じて、自己中心的な自我が砕かれ、真に自我が定立される。そこに救いがある。



2.2 レヴィナスにおける二種類の他者



2.2.1 分離における女性



 ヤスパースの、実存的交わりの関係、他者との親密な関係は、『戦争の罪を問う』では、形而上的な罪意識の前提となるものであった。そのような関係は、レヴィナスにおいても、女性の他者との関係として触れられていると思われる。

 レヴィナスにおいても、「審問する他者」を迎接する前提として、「女性(femme)」を前提条件としており、この点は共通するといえる。またこのことから、ヤスパースの実存的交わりにおける他者とは、レヴィナスの図式における、「女性」の要素が強いということがいえるだろう。

 「女性」について見ていくにあたり、レヴィナスの思想における分離から対面へという流れを確認しておきたい。



 人間は先ず、元基(element)の中で生きている。元基、つまり、食糧、水、空気、などの生存条件によって生きている。あるだけの養分を好きなだけ摂取しつづけている。しかしそれだけでは他の動物と同じである。人間は、<家(maison)>に住むことによって、元基から距離を置く。それによって、直接的な摂取から、労働による糧の蓄積が行なわれる。「人間活動性の条件であること、条件であるという意味において人間の活動性の端緒であること、それが家の特権的な役割なのだ。…どんな考察もが住居(demeure)を起点としてなされるという事態に無効が宣せられるわけではない。」(TI.125-6/229)

 意識の面では、元基の中で生きている状態から、一歩身を引くことにより、表象(representation)という活動が可能となる。自己意識が可能となる。ヤスパースでは、現存在から意識一般へという上昇過程として描かれるところである。

 このような分離を成就する最終的な条件が「女性」である。

 「歓待しつつ迎接することの最たるものが<女性>という<他人>の現前にもとづいて成就され、この迎接によって内密性の領野が描き出される。女性は集約し収容することの条件、<家>の内面性および住むことの条件なのである。」(TI.128/233)

 「顔の迎接はまずもって平和なものである。なぜなら、顔の迎接は消すことのできない<無限>の<欲望>に応えるものであり、戦争でさえ、顔の迎接の一可能性であって、その条件では決してないからである。このような顔の迎接は、根源的には女性の顔の優しさのなかで生起し、女性の顔のおかげで、住み、その住居のうちで分離を成就する。

 このように、無限の観念--顔のうちで顕現する無限の観念--は分離された存在に対してただ単に要求をつきつけるだけではない。分離には顔の光が必要である。だが、家の内密性を確立するものとしての無限の観念は、何らかの敵対的な力、弁証法的な呼びかけの力によってではなく、その光輝の女性的優美さによって分離を引き起こす。」(TI.125/226-7)

 「顔の迎接はまずもって平和なものである」と言われている。以上の引用によれば、平和な迎接として、分離を成就するものとしての顔こそが顔の根源的な在り方となる。

 レヴィナスの体系においては、審問する他者の描写が中心なので、このような女性という他者のあり方は二次的かというとそうではなく、むしろ他者の可能性の原型なのである。例えば以下のように言われている。

 「女性という他性は言語とは別の次元に位置しているのであって、不完全かつ未成熟な初歩的言語を示しているのでは決してない。まったく逆に、女性的他性の現前の慎み深さは他者との超越的関係のありとあらゆる可能性を含んでいるのだ。」(TI.129/234)

 原型としての女性的他性は、内密性を形成する他者でもありうるし、審問する他者、対話を交わす他者でもありうるのである。ここにはヤスパースの愛しながらの闘いとの共通点が見られる。

 しかしともあれ、女性の役割は、まずもって不可欠な一方の役割、迎接する存在、分離を可能とする他者として描かれる。この場合、女性との関係は言語を欠いたものとなり得る可能性を持っている。

 「が、住むこともいまだ言語の超越ではない。内密性のうちで迎接する<他者>は高さの次元で顕現する顔としての貴殿ではない。そうではなく、この<他者>は親密なるきみにほかならない。親密さとは教えなき言語、黙した言語、言葉なしの諒解、秘密裡の表出である。ブーバーは私-きみのうちに間人間的関係の範疇を認めているが、私-きみは対話者との関係ではなく、女性的他性(L'alterite feminine)との関係である。」(TI.128-9/233)

 ここで言われる女性的他性は、根源的な女性ではなく、一つの在り方としての女性である。

 さてともあれ、このような分離が女性の他者によって可能となった後に、他者の迎接が可能となる。この過程はヤスパースの過程と類似している。



2.2.2 審問する他者の迎接



 「分離は自我中心性、享受、感受性、ひいては内面性の次元全体をその要素としており、それゆえ、分離された有限存在を起点として拓かれる<他者>との関係ないし<無限>の観念はこれらの要素を欠くことができない。」(TI.122/222) などと言われるように、この女性の迎接において完成される分離は不可欠なのである。

 また、明晰な意識活動ができるためにも、このような分離段階が必要なのだろう。またこの分離過程は、意識活動と切り離せない「時間」や「言語」を可能にするための不可欠な段階である。

 さて、このようにして形成された家において、はじめて、審判者としての他者を家に迎接することができる。そして己の資材を、他者に与えることができるようになる。この他者は私を審問する。ここにおいて社会性の次元が展開される。私は立派な大人として、責任を問われる。本当の意味ではこの責任はどこまでも果たし得ない。しかし、私はありのままを正直にさらけ出し、弁明しなければならない。ここにおいて言語が問題となり、正義、倫理が問題となる。言語ゆえ真理が問題となる[「象徴ーそれも沈黙の薄暗のなかで象徴する象徴ーは多様で、かつ互いに競い合う諸可能性を有しているのだが、ひとり発語のみがこのような複数の可能性から一つの可能性を選び出し、そうすることで真理を誕生させうる。」(TI.156/277)]。



 以上のような過程をみると、まったく違う他者が二種類あるようである。しかし先に述べたように、「女性」は本来、両方の役目をしうる可能性を持っており、より包括的な概念なのである。だから審問する他者の方は、すでに可能性を選んでしまった様態なのである。

 ヤスパースでは親密な実存的交わりの関係は、形而上的な罪意識の前提条件であった。レヴィナスにおいても、やはりすべての前提条件として、親密な相互関係として、「女性」が考えられているので、この点で共通するといえる。しかしレヴィナスでは、この「女性」であれ、私と同等の関係とははっきり言えないだろう。



第3章 ヤスパースの実存的交わり



3.1 実存的交わりの過程



 ヤスパースの実存的交わりにおける他者との関係を見ていくにあたり、1.自己が他者へと向かう動機について、2.交わりの過程、3.交わりの実現、の観点で、それぞれレヴィナスの場合と比較しつつ見ていきたい。



3.1.1 自己が他者へ向かう動機について



 自己が他者へ向かう動機、実存的交わりへと駆り立てるものについて、ヤスパースは先ずそれを「不満」として説明する。例えば、他者との交わりが、単に、情報・意志疎通だけの交わりとか、社会的な役割を通じての交わりだけである時に感じる「不満」。あるいは「孤独」であることの不満。これは以下のように言われる。

 「この不満こそは哲学的反省の出発点であり、その反省は、私が私自身としてはそのつど代理されえない他者を通してのみ存在するという思想を了解しようと欲する。」(PhII.55/109)

 この「不満」は、他者を否定して、全てを自己へもたらそうとするような欠乏感ではなく、他者と共に在りたい、というような欲望といえるだろう。

 また、後の方の箇所では、交わりの動機は、より根本的には「不満」というよりむしろ「愛」だと言っていることも、このことと合致する。他者へ赴こうとする欲望という点では、レヴィナスの場合と共通するといえる。

 動機に関し、レヴィナスとの相違点として、他者に対する負い目、については、あまり語られていないことには注意すべきである。これについては後に第四章で考察する。



3.1.2 交わりの過程



3.1.2.1 関係の相互性の問題



 レヴィナスの場合においては、ただ一方的に、他者からの絶対的な命令としての呼びかけがあり、私はそれにただ応答することができるだけであった。

 しかしヤスパースの場合、他者との関係は相互的で、対等である。他者が躊躇するなら、他者を励ましたり、問いつめたりもする。「この愛は可能的な実存から他の可能的実存を問題にし、苦難を負わせ、要求し、把握する。」PhII.65/119) 他者を自己と対等に扱う。

 レヴィナスの場合、自己の行為がそままま環境の変化、他者の変化につながるようなものがない。「…他者から新しさが到来するゆえに、新しさのうちには超越と意味が宿っているのだ」(『存在の彼方へ』406頁)というように、他者から意味が到来する。

 ヤスパースの場合、相互の交わりは、生み出し続ける対話である。

 そして他者は教えて貰う<師>ではなく、交わりのなかで「愛の闘争」を共に戦ういわば<戦友>なのである。「実存のために共にきわめて決定的に格闘する友人が成立することになる。」(PhII.65/120)



3.1.2.2 一義性、多義性。相互公開について



 また、レヴィナスの場合、他者との関係が絶対的な命令、「本質的悲惨」として顕現する一義的な<顔>の聞き違えのない呼びかけへの応答、というのが重視された。ヤスパースにおいては、他者を「本質的悲惨」として規定しない。彼にとって一義的なもの、つまり根底にある第一原理は、交わりへと向かう衝動、動機である「愛」に当たるのかもしれない。しかしヤスパースの場合、その愛は、他者への責任感を強調する方向へは向かわず、交わりにおいて相互の徹底的な公開をめざすことを、支えるものとなっている。交わりの過程の方法論は、徹底的な相互公開なのである。多義的なものを相互公開していくことによって、最終的に相互の存在を確認するという出会いがある。

 例えば、

「徹底的な公明さ、あらゆる権力と優越の排除、他者の自己存在と自身の自己存在、これをめぐる争いである。この争いにおいて両者は敢えて腹蔵なく自己を示し問いの対象とする。」(PhII.65/120)といわれる。

 ところで、レヴィナスにおいても、「それは、自己を隣人へ引き渡すことであり、自己を透明にしてしまうことである。換言すれば、他者への責任を逃れるために私が逃げ込むことのできるような不透明な暗がりを、秘密の隠れ家を、自分自身のうちに保持しない、ということなのである」(『神の痕跡』岩田靖夫著、161頁)というような、ヤスパースの「公開性」に通じるものがある。これは、他者へ全面的に自己を曝すことであり、他者へと自己を委ねてしまうこと、いわば人質となることである。

 しかし、

 「自己であること-人質ないし捕囚の条件-とは、他人よりも次数が一つ上の責任をつねに担うこと、他人の責任に対する責任をつねに担うことなのだ。」(『存在の彼方へ』272頁)

 とレヴィナスはいう。人質となることの条件として、「他人よりも次数が一つ上の責任を担うこと」がある。ヤスパースも、無条件にただ自己を他者へ公開することは言っておらず、前提となるものがあり、それは愛や「不満」であった。しかしそれらは、自己も他者も共に有するべきものである。レヴィナスの場合の責任は、他者より一次上の責任である。他者と同じでなく、一次多く責任を負うということは、他者に対して一つの秘密を持つことになるだろう。



3.1.2.3 愛しながらの闘い(Liebender Kampf)とは



 レヴィナスは、

 「<他人>は<自同者>をその責任へといざなうことで<自同者>の自由を創設し、この自由に正当な根拠を与える。顔としての他なるものとの関係が<自同者>の他者アレルギーを癒すのだ。」(TI.171/297)

 というが、ヤスパースにしてみれば、そのような顔は、直ぐには顕にならないのであって、愛しながらの闘いという過程が不可欠なのである。

 愛と闘いが同時に展開されるとはどういうことか。先ず愛について検討しておこう。

 普通、愛とは一体化の原理であり、無条件な愛による一体化は、方向を間違えば、排他的な民族主義などへ向かう危険性がある。また愛は、赦し・自己放棄の原理として、レヴィナスでは、言語による審問と弁明の出会いによらず自己放棄する場合を指すこともある。

 「弁明を沈黙に帰す理性の暴力に対して反旗を翻した主観性が、沈黙することを受け容れるのみならず、暴力によることなくみずから進んで自己を放棄し、弁明を中断しうる場合である。これは自殺でも諦念でもない、これが愛なのだ。これに対して、僣主制への服従、普遍的法への屈服は、たとえこの法が理性的なものであったとしても、私の弁明を中断し、私の存在の真理を損なってしまう。」(TI.231/390)

 このように、愛には、言語を越えて交わってしまうという要素がある。

 それでは、「愛しながらの闘い」の「闘い」とは何か。

 普通、闘いといえば、両者が相手を敵として闘うのだが、そうではなく、

 「それは二つの実存相互の闘いではなく、自己自身と他者とに対する共通の闘いである」(PhII.66/120)

 と言われるように、自己は自己自身と他者自身に対して闘い、他者もまたそのように闘うのである。どういう闘いかと言えば、

 「徹底的な公明さ、あらゆる権力と優越の排除、他者の自己存在と自身の自己存在、これをめぐる闘いである。」(PhII.66/120)

 なのである。徹底的な公開性を相互に目指すのであり、それを阻止する自尊心や自己保存欲を越えて、愛の信頼関係の中で、それをなし遂げていくのである。 何に対して闘うかといえば、相互の自己自身の自己保存欲、つまり自己中心主義の現存在{レヴィナスなら<欲求>]としてのあり方という弱さに対してであり、レヴィナスなら<欲求>から<欲望>への転換が他者の顔に面して、比較的劇的に成されているように見えるのに対し、ヤスパースの場合、もがきながら苦しむ過程として、この転換が描かれている。

 ヤスパースにおいては、徹底的な公開性が、実存的交わりの方法論である。そうして相互に公開されたものに関しては、何でも無条件に受け容れ許すというわけではない。何でも腹の内を全て披露し会えば、人間は通じ合え愛し合えるものだ、という単純なものではない。例えば、相手に対する悪意、嫉妬心、恨みなどを明かしたときには、逆に関係は悪化する場合が多い。そのような相互に公開された情念自体が、お互いの間で審問され、問われ、公開されなければならない、ということがあるだろう。それを成すには、相当な、実存的交わりへの動機、愛の動機、強烈で純粋な深い交わりへの渇望が前提となるだろう。公開性をめぐる闘いは、愛によってはじめて支えられ、仮借なく行われることができる。ヤスパースの実存的交わりを支えているのは、彼の実存的体験からくるところの、交わりが成されないことに対する強烈な「不満」、交わりへの強烈な渇望なのである。これはレヴィナスでは<欲望>として描かれたものである。



 ヤスパースは「愛は明察する(Die Liebe ist hellsichtig)」(PhII.277)という。彼においては、愛は決して盲目ではない。

 そこには、徹底した公開性において人間相互は理解し合え、信頼し合えるはずだという思想がある(公開性と性善説への信頼)。また人間が相互に問い問われしつつ、実存へと高まってゆくことができるはずだという思想がある(相互審問能力への信頼)。

 「愛しながらの闘い」という実存的交わりは、問いと応答という相互審問(愛のやり取りであり、また、責任の問いでもある。いずれにせよ公開性がある)が展開される背後に、愛という動機がある。

 レヴィナスとの共通点は、交わりが審問の場であるという点、また他者に無条件に自己を委ね、他者の審問に委ねるという点である。差異点は、審問が一方的か相互的かという点であるといえる。しかし、このレヴィナスの一方的な審問は、やはり、ヤスパースと比べ、非常に深いといえる。根本的に愛による出会いであるヤスパースと、根本的に責めを介しての出会いであるレヴィナスの間には、やはり深い差異がある。



3.1.3 交わりの実現



3.1.3.1 垂直の出会いと水平の出会い



 他者との出会いはヤスパースの場合、「この争いは全く同等の水準の上でのみなされる(Dieses Kampfen kann nur auf vollig gleichen Niveau stattfinden)」(PhII.66/120)「交わりにおいて私は他者と共に私に開示される」(PhII.64/118)と言われるように、やはり全く対等な関係としてなされる。レヴィナスの場合、出会いは「審判の場」であり、私は被告であり、他者との関係には格差がある。しかしその出会いによって初めて「平等」が生起するとも言っている。ヤスパースの場合、出会いの必要条件として平等性が考えられているのに対し、レヴィナスの場合は出会いによって初めて平等性が創設される、という違いがある。

 レヴィナスの場合、他者との出会いは垂直になされ、ヤスパースでは水平になされると言える。さらにそれぞれ、垂直だからこそ、真に出会えるのであり、また水平だからこそ、出会えるのだとも言える。



3.1.3.2 愛は、関係が達成されて初めて、明らかになる。



 レヴィナスの場合は、最初に顔との対面という衝撃があった。最初に真実を知っているのである。ヤスパースの場合は、関係が達成されて初めて、全容が明らかになる。愛とは何かを知る。またそれ以降も、この交わりは続くが、その場合は、最初から全容を知って、交わりが開始されることになる。

 「愛はまだ交わりではなく、交わりを通して解明されるところの交わりの源泉である。世界内においては概念化されない相互依存関係の一体化(Inneinsschlagen des Zueinanderghhorens)が或る無制約者(Unbedingtes)を感得させる。この無制約者がこれ以後は交わりの前提であり、交わりにおいて仮借のない誠実さの愛しながらの闘いをはじめて可能ならしめるものである。」(PhII.71/126)



3.2 他者との同等性



 以上、ヤスパースの交わりについて、レヴィナスと比較しながら見てきた。

 ここではヤスパースの実存的交わりの特徴である、他者との同等性が何に由来するのかについて見ておきたい。

 先ず考えられるのは、このような同等性は第三者の立場から客観的に眺めてはじめて、得られるのではないか、という意見である。

 そのような客観的・対象的認識に、根源的な同等性の起源があるとはレヴィナスも考えていない。同等性の立場に立つマルセルやブーバーについて

「ガブリエル・マルセルの『形而上学日記』およびマルチン・ブーバーの『私ときみ』は互いに影響を与えることなくある一個の思想動向を確立したのだったが、この思想動向のおかげで、対象の認識に還元不能なものとして<他者>との関係を捉える考えも空飛なものではなくなった」(TI.40/90)

 と言っているからである。そして、

「[ブーバーについて]きみと呼び合うことは<他人>を相互的な関係に定位することではあるまいか。そしてまた、この相互性は果たして根源的なものなのだろうか。…<無限>の観念を出発点とすることによって、本考察はブーバーとは異なる展望を拓こうとしているのだ。」(TI.40/91)

 と言って、他人との相互的・同等的関係とは別の関係、相互的でない関係を展開していく。



 ヤスパースも、実存を論じる場合、実存を離れて客観的に論じることができないことを言っている。[「…私は、実存から外へ出ることはできない。すなわち実存を傍観することはできないし、それを他の実存と比較することもできないし、それらの多くのものを客観的に並置することもできない」(PhII.420)] だからヤスパースの、他者との同等性は、客観的な第三者の視点から見た同等性を言っているのではなく、実存の同等性を言っているのであり、またレヴィナスも、実存のレベルの差異性を語っているのである。



 ヤスパースは同等性を主張することで、同時に何らかの不平等性に対して、異議を唱えているわけだが、それはどんな不平等性のことを指しているのだろうか。

 一つは、社会的役割における不平等性である。主人と僕、先生と生徒、などの関係においては、社会的関係がうまく回転するように、それぞれにふさわしい役割を果たしていくことが要求される。それはそれで有用なものだが、役割ゆえの不平等があるかぎり、真の交わりは成立しえない。

 「しかし両方の側に精神的な力が活動しているところには、生々とした力関係がある。従属者に対する好意と主人に対する従順のうちには交わりがある。配慮における忠実と従属におけ忠実、従属者に対する責任と主人に対する畏敬が相互的に結び合う。かかる状況はかかるものとして、両方が距離をとってなされる、実質に満ちた交わりを可能とする。これに対して実存的交わりは実在する依存関係の形態のうちにおいても同等の水準を実現する。…しかし相互に、水準の等しくない交わりの形態のうちに自己存在の充実を見出そうとする試みは危険である。」(PhII.92/148-9)

 平等でない交わりは、ヤスパースの図式では一つ前の段階、精神の交わりに属するのである。

 もう一つには、どちらかが人格的に優れているという場合がある。これについてヤスパースの述べている箇所を少し長いが引用しておく。

 「現存在的現実の依存性のうちで交わりの実現を貫徹するいっさいの実存的な水準同等性と比較して、永遠の位階性の理念(Idee einer ewigen Hierarchie)を把握することは、それとは根本的に別な或るものである。私はここで、私のけっして知らないところの実存間の序列について、あらゆる交わりを越え出て考えている。

 この序列は、比較されうる諸性質の序列やさらには経験的現存在の全体すなわち生命力の重圧や作業や効果や精神性や教養や公共の名声や社会的地位などの序列とは本質において相違するであろう。…それに対して実存間の序列はけっして実現されないし、また普遍的な場合にも特殊的な場合にもけっして知られえないであろう。この序列は他者のより重要な意味のある深さと決断性を秘かに常に可動的に感ずる感情として、また私の側におけるそれらのものの感情として現象するであろう。」(PhII.94/150)

 とにかくこのような実存間の位階については、「他者のより重要な意味のある深さと決断性を秘かに常に可動的に感ずる感情」というほどの、かすかな感情としてしか現れ得ない。決して客観的には知られないものである。「私が有る存在者を全体として評価し総決算をし精算するかぎり、そのものは私にとってもはや実存ではなく、心理学的客体かあるいは精神的客体にすぎない」(PhII.95/151)のである。

 ヤスパースはこのように、確かに破棄されない実存の位階のようなものがあることは認めている。しかし、実存的交わりは、自己の存在一切をそこに賭ける行為によって成される。だから単なる心理の公開、共有などというレベルではない。尊厳も何もなく自己の全てを賭けきる「ような危険の瞬間がなければ、どんな心の接近も成立しない。」(PhII.78/133)「けだし、みずからを浪費せず、恥ずかしさのあまりに後にひかねばならぬことを一度も経験したいことがない者には、実存的交わりはほとんど成就しないからである。」(PhII.78/133)

 これは一切の根拠なく、無の中に飛び込むような行為なのである。何らかの共有基盤があるかぎり、それは精神の交わりであって、実存的交わりではない。あるかないか分からないような、愛の動機、「不満」の動機をもとにして果たされる行為である。それまでの精神の交わりによって保たれていた充実した内容が失われ、ニヒリズムが支配することを恐れて、あえて自己放棄をしないなら、実存的交わりはあり得ない。「実存するために実存を放棄する(die Existenz hingeben, um zu existieren)」(VdW.591/3-260)という真理が妥当する。

 さて、そのような次元で問題となる同等性とは何なのか。

 その前に、ヤスパースの実存的交わりの到達点は如何なるものなのかを確認しておこう。先にも引用したように、

 「世界内においては概念化されない相互依存関係の一体化が或る無制約者を感得させる。この無制約者がこれ以後は交わりの前提であり…」(PhII.71/126)

 という状態である。自己の存在つまり実存は、他者に依存し、他者の実存は自己に依存しているという相互依存関係の一体化が究極的な境位といえる。「あなたが存在するゆえに、私が存在し、私が存在するゆえに、あなたが存在する」という状態である。そしてこの関係の一体化が、無制約者(Un-bedingtes)、レヴィナスでいう無限(in-fini)を感じさせるのである。レヴィナスの場合、この無限が他者の方に一方的に課せられている点が、ヤスパースと違うといえる。

 ところでヤスパースも実存の差異性・断絶性については強調している。しかしレヴィナスの差異性が、絶対的優位である他者と自己との断絶性、倫理的な縦方向の断絶を主に強調しているのに対し、ヤスパースの差異性は、それぞれの実存の由来が根本的に異なるゆえの差異性・断絶性である。(レヴィナスにはこの意味もあるが)

 レヴィナスのような「師(maitre)」という発想も、ヤスパースでは疎遠といえる。他者は先ず対等な他者として扱われなければならない。

 レヴィナスは相互性をどのように考えているのだろうか。

 「たとえ他人が、それ自体では独断的なものである私の自由を私に授けうるとしても、それは、私自身、最後には自分を<他人>の<他人>として感じうるからである。しかし、この感覚は実に複雑な諸構造を媒介としてのみ得られる。」(TI.56/117)

 究極的には、他人の他人としての自己を見ることにより、最終的なものとして、相互性が確認されると考えている。



3.3 まとめ



 ヤスパースの交わりにおいて達成される境地は、一見、二者が互いに心を開いて心が通じ合って、一つになる喜び、のように見える。しかし、ヤスパースが述べている相互依存関係の一体化は、相互性が破棄されない状態である。ヤスパースは、交わりの中で初めて、他者の存在と自己の存在を確認することを述べており、そういった存在の確認こそが彼の思想の目差しているところなのである。存在が、そういうものであること、を知ること、つまり「存在意識の変革」が主著『哲学』の目差したことであると序文でも述べている。また彼が実存と超越者が融合するような神秘主義を受け付けないことからも、このことは傍証されるだろう。交わりにおいて達成されることは、二者の性質が共有されたりすることではなく、他者が他者として存在を確認し合えるところにあると考えられる。



第4章 様々な局面からの比較



4.1 神について



4.1.1 神秘主義の克服



4.1.1.1 レヴィナスの神秘主義克服の道



 ヤスパースでもレヴィナスでも、神は倫理的な文脈で問題となり、言語や他者と深く関わる。そのため、融即的な神秘主義などを避けなければならない。このことに関して両者の扱い方を見ておく。

 食糧や空気、水、衣服、住居など外的な生活環境に守られて生きる人間存在の側面は、ヤスパースでは現存在と言われる。レヴィナスでは元基を享受することに当たるだろう。

 レヴィナスにおいてはこの段階は、土俗信仰(paganisme)に陥る危険があるとされている。融即的な神秘主義に陥る危険である。以下、この危険を如何に回避するかについての、レヴィナスのたどる道を確認しておこう。

 充足する享受は、同時に未来も享受できるかどうかの不安を抱え込む。「享受は確実性ないし安全性を欠いている」(TI.116/212)。この不安・虚無に「顔なき神々」、土俗信仰が入り込む。顔なき神々へ信仰を捧げ、未来を約束してもらうことで、不安・虚無を解消しようとするわけである。

 「われわれが語りかけることのない顔なき神々、人格なき神々は、享受の自我中心性を取り囲んだ虚無を、享受と元基との親密な関係の只中にしるす。けれども、享受はこのようにして分離を成就するのだ。分離された存在は土俗信仰に陥るという危険を冒さなければならない。土俗信仰においては、分離された存在の分離が証示され、分離が成就されるからである。土俗信仰に陥るというこの危険は、顔なき神々の死が分離された存在を無神論および真の超越に連れ戻すときまで、消え去ることがない」(TI.115-6/211)

 ここで言われる顔なき神々の死が如何にして可能かというと、労働と所有によってである。「不安を抱ける享受は労働と所有に救助を求める」(TI.116/212)。

 労働と所有によって、わが家(chez soi)において、分離が完了する。

 「分離された存在がそれを分離する<存在>に融即することなく、独力で実存しつづけるような完全な分離、このような分離を無神論と呼ぶことができる。…分離された存在は神の外(dehors de Dieu)、わが家で生きる。」(TI.29/73)

「分離された存在の絶対的自存性は家政的実存のまったき充溢のうちで成就されるのである。」(TI.31/76)

 享受段階の土俗信仰の危険を克服するものとして、労働と所有、わが家、がある。そして我が家において、分離が完了し、この無神論(土俗信仰、汎神論の否定)が、倫理的な神との対面を準備する。この、享受→わが家(意識活動の可能性)→他者・神の迎接、という三段階は、ヤスパースでは、現存在(動物的な単なる自己中心的な生き方)→意識一般→実存と超越者(神)、の三段階に当たる。



4.1.1.2 最終的境位としての対面



 しかし、レヴィナスでは明確には見あたらない段階なのだが、ヤスパースは意識一般の段階と、実存の段階と間に、精神の段階を設定する。精神の段階における他者との交わりは、理念を中心とした交わりとなる。一つの理念、目的を中心として人々が関係する。例えば教え学ぶ場としての学校、共に利潤追求するために集まった会社、などである。そこでは一つの目的・理念に基づいて、個々人がそれぞれの役割を担い、目的に向かって活動している。また宗教教団も何か具体的な対象としての、真理やカリスマを中心として集ったものなら、この精神の交わりの段階に当たるだろう。

 しかしやはり、この精神のレベルも、現存在のレベルと同じく、自己中心性の原理に基づいている。この精神のレベルの考察は、ヘーゲルを想定して行われている。ヘーゲルの神が最終的に対面する他者でなく、自己と神との区別が無いのは、その神が自己中心性の原理の上で立てられたものだからである。またそれゆえに倫理的というより抽象的な神観となった。

 ヤスパースにおいて、この次の段階が、実存と超越のレベルであり、レヴィナスにおいては他者との対面である。ヤスパースの実存の定義が、「実存とは、自己自身に対して態度を取り、そしてその際超在に対して態度を取るところの自己存在であり、それはこの超越によって自己を贈与されたことを知り、この超越の上に基礎を置いているのである。(Existenz ist das Selbstsein, das sich zu sich selbst und darin zu der Transzendenz verhalt, durch die es sich geschenkt weiss, und auf die es sich grundet.)」(Existenzphilosophie,S.17/39)とされ、自己と超越者とが別存在として授受する関係にあるのは、一つには精神の段階との区別を意識してのことである。

 ヤスパースもレヴィナスも、この(神、他者との)対面を最終的境位とすることで、融即的な神秘主義を否定する。



4.1.1.3 言語に基づいた倫理的な対面関係



 この対面(face-a-face)という関係は、倫理的な関係である。倫理的な関係は、向き合う他者との間に展開される、客観的な知の関係や、神秘主義的な関係や、美的な関係とは根本的に異なっている。それらの関係は、二者間相互に交わされる場合でも、そこに本当の意味での交わり、出会いはない。知の関係は、支配する関係であり、その視線は、互いに逸れ合うか、対立し合うか、あるいは、一つの目的へ一致することで相互に他者そのものを失うかである。

 また、倫理的な対面関係は、先に触れたように、単なる恍惚感を伴うだけの神秘主義的な神との合一でもない。

 レヴィナスは次のように言っている。

 「倫理的関係すなわち対面(face-a-face)は、神秘的と呼びうるようないかなる関係とも際立った対比をなす。神秘的関係においては、始原的存在の現前化以外の出来事がこの現前化の純正なる真摯さをかき乱したり、あるいはそれを超自然的次元へと昇華し、その結果、ひとを恍惚とさせる意味不分明なものが表出の根源的一義性にまとわりつく。…神秘的関係の対蹠点にこそ、倫理的関係と言語の理性的性格は存している。どんな恐れやおののきも倫理的関係の廉直さ(droiture)を損なうことはできない。倫理的関係は連関の不連続性を保持し、融合を拒む。」(TI.177/307)

 また、似た関係だが、美的な関係は、例えば美的感動に満たされ、美の前にひざまづく。偉大なもの、聖なるものに面して跪くという形式はこれに類似する。しかし「形而上学的関係、すなわち無限の観念はヌミノーゼならざる本体との関係である。」(TI.49/106)と言われるように、倫理的関係[この場合、形而上学的関係]はそのようなものではない。

 また、倫理的関係は、相互に理想化しあった恋人同士が、愛する相手に心を奪われあうだけであるような関係でもない。この場合は、実は相互に出会ってはいないのである。あるいは、愛される側に、愛する側が一方的に没して一体化したり、両者が共に愛し合うことによって、甘えや寛容さによって、区別なく一体化したりすることでもない。

 倫理的関係とは、真の意味で、人格同士が、隠し事なく、裸で、素顔で出会う関係である。隠し事とは、何か言明できる内容のことというより、むしろその人の人生に対する態度、他者に対する態度における隠し事である。

 それは情熱的な実存に根ざしつつ、同時に、言語に基づいた、理性的な関係である。隠し事のなさは、対話に基づいて実現される。

 「私自身が語ることは問いを意味している。私は答えを聞こうとするが、しかしそれはけっして抗議でもなく押し付けでもない。果てしなく答弁することが真の交わりに属している。答えが直ちに実現しないならば、答えは忘れられない課題として残存する」(PhII.66/121)

 そしてこの言語は必ずしも、言われた内容に限らず、その言葉のニュアンス、態度など、その人の自己存在が表明される、全ての事柄を含む。ごまかし無く表明し、ごまかしなく受け取り、ごまかしなく答える、という関係がある。「倫理的関係においては、答えが問いをはぐらかすことはない。」(TI.177/307) この関係において、対話する二者間において一義性が実現されること、しかも二者それぞれの最も深い、裸の実存において一義性が実現されること、この奇跡的な出来事が平等と言われるものであり、これが言語の果たす根本的な役割である。

 また倫理的関係の場では、具体的な他者に対面するなかで、はじめてあらわになる、絶対的な尺度[自分が初めから持っていた、単に観念的な絶対的尺度・神観によって自己を測るのではない]によって自己を倫理的に測り、自己を透明化し、一切の抵抗を脱して、真に自由に交わり・出会いが可能となる。

 



4.1.2 他者と神。ヤスパースの神の下での平等。レヴィナスの他人と直結した神。



 他者と神との関係はどうなっているのだろうか。結論から言えば、ヤスパースの場合「神の下での平等」の思想に基づいており、レヴィナスの場合は自己と他人・神との関係は平等でなく格差があり、他人と神が直結している。

 例えばレヴィナスでは次のように言われる。

 「超越者(transcendant)を異邦人として、貧者として措定すること、それは、人間や所持物に対する目配りを、神との形而上学的関係成就のための不可欠な条件たらしめることである。神的なものの次元は人間の顔にもとづいて開かれるのだ。」(TI.50/106)

 ヤスパースは、超越者を貧者として措定することはしない。

 レヴィナスにおいては超越者・神が、他者のあり方と同様、異邦人、貧者として、了解されているのである。だから本質的悲惨であるところの神・他者に面して、自らに責めを感じ、それに応答しようとすることが、最終的な境位となる。ヤスパースの場合は、超越は、異邦人、貧者として措定されたりせず、より不可知なものである。彼の場合、最終的境位は、徹底的な絶望、全ての意味や希望が断たれることに面してなお、「神が存在するということだけで十分なのだ。(Dass Gott ist, ist genug.)」(Sf.88/189)というものである。「一切が消滅しても、神は存在する。これが唯一の浮動の地点なのである。(Wenn alles verschwindet, Gott ist, das ist der einzige feste Punkt.)」(Sf.88/189)

 それは不可知な絶対者に面しての、根本的な安心(ruhe)を伴った、静寂である。だからといって簡単に、ヤスパースの哲学が、静寂主義だと批判することはできない。全ての理性的活動を、常に根本において支えているのが、この安心なのである。



 ヤスパースの場合、神と他人とは違うのである。

 ヤスパースの超越・神は、他人と直結するような存在ではなく、包括者とも言われるように、自己をも他人をも包み込んでいるような存在なのである。超越との関係は、対面というより、超越によって、存在させられている、という意識のことである。だからレヴィナスよりも人格神からは遠い。

 このような、自己、他人、神の三者関係の違いがあるので、レヴィナスの場合、

「形而上学は社会的連関が営まれる場で、人間同士の連関のうちで営まれるわけだ。人間同士の関係から分離されたいかなる神の「認識」もありえない。<他者>は形而上的真理の場そのものであり、私と神との関係に不可欠なものである。<他者>は媒介としての役を果たすのでは決してない。<他者>は神の受肉ではなく、神の顕現がなされる高さの現出であって、この現出はほかならぬ<他者>の顔によって、<他者>を脱肉化するこの顔によって生じるのだ。」(TI.51/108)

 と言われるように、神に通じるのに他者の顔が不可欠なのだが、ヤスパースの場合、他者との関係が最終的に断たれた場合には、

 「[他者との関係がもはや断たれた場合の]この孤独感はけっして究極的なものではなく、私が真実に孤独を突破しようと試みるならば、その孤独のうちで私は我が友を超越者そのもののうちに生み出すことができるのである。」(PhII.60/114)

 といわれるように、超越者との直接的な関係があり得る。

 このような神観の違いは、どのような、他者との関係を、根本的とするかで、両者の根本的な差異として現れるが、これについては第五章のまとめで触れる。



4.2 親密な二者間の閉ざされた関係と、開かれた社会的関係



 レヴィナスが目指している他者との関係は、開かれた多元的な社会的関係であり、二者間の親密な恋愛関係ではない。恋愛関係は、むしろ第三者を排除するのである。彼は次のように言っている。

 「官能をつうじての恋人たちのあいだに確立される連関は根底的に普遍化に逆らうものであり、社会的連関とは正反対のものである。恋人たちのあいだに確立される連関は根底的に普遍化に逆らうものであり、社会的連関とは正反対のものである。恋人たちの連関は第三者を排除する。恋人たちの連関は親密さ、二人の孤独、閉じた社会にとどまる非公共的なものの典型である。女性的なもの、それは社会に逆らう<他人>であり、二人の社会、親密なる社会、言語なき社会の成員である。」(TI.242f./409)

 恋愛関係は、無言で通じ合い、言語ではなく愛が交わされる関係である。

 レヴィナスは、親密な二人の間で成立する、相互の愛を中心とした、恋愛関係をモデルとする関係では、あらゆる人間を結びつける社会的関係というのは不可能と考えたのだろう。どんな他者とも結びつくことができる、自己の態度。しかも一切の暴力を排除した、態度。それは、一切を喜んで自分の責任に帰する態度でしかありえないだろう。



 では、妻との親密な関係をモデルとしているヤスパースの実存的交わりにおける、他者との関係はどうだろうか。先に述べたように、実存的交わりは、無言で通じ合う言語無き関係ではないのだが、しかし、ある種の閉鎖性を伴っている。

 「交わりの意志に対して自己を拒絶することが私の責めであるように、現実の交わりに踏み入ることはその他の可能性を排除することを結果として伴う。私はすべての人間を交わりの友として獲得し得ない。…」(PhII.60/114)

 実存的交わりは、そのつど、代理され得ない具体的な他者との関係である。この関係は、第三者を意図的に排除しようとするものではないが、第三者が入り込む余地のない関係である。そこでは、抜き差しならぬ愛しながらの闘いが展開されているのであり、第三者まで交える余裕はない。

 ヤスパースは、この二者間の実存的交わりの関係を基盤として、開かれた広範な他者との社会的関係について考えている。しかし、やはり何より重要であり、関係の出発であり、究極目標であるのは、この二者間の実存的交わりの関係である。



 そして、この関係をすべての人との間で結び得ないということが、責めとなるのである。

 「交わりの存在意識の根源には、その意識の現われの客観的狭さが避けられない責めとして結び付いている。」(PhII.60/114)

 これは『戦争の罪を問う』と同じ論点である。

 この意味での責めは、レヴィナスの場合ありえないだろう。なぜなら、他者への責任はまったく同等に生じうるのであり、ある一人の他者には応答しえたが、ある他者には応答しえなかったので、より多く負い目があるとはいえないだろうから。このヤスパースとの違いは、レヴィナスの場合には他者が、具体的な他人というより、むしろ、神に直結しているというところから出てくるのだろう。





4.3 死について



4.3.1 自己の死



 ヤスパースは、「二重の死」(Der zweifache Tod)について語る。それは死の恐怖の二つのあり方として現れる。

 「ひとつは、本来的存在を失った現存在(Dasein, das im Nichtsein der Existenz doch ist)という形態においてであり、もうひとつは、徹底的な非存在(radikales Nichtsein)という形態においてである。」(PhII.227/311)

 後者の死は、ハイデッガー的な意味での死である。この後者の死の考察において、ヤスパースが真にハイデッガーのような徹底的な非存在、無、について考察できているかどうかについて疑義の残るところがあるが、ここでは立ち入らない。

 ここで、レヴィナスとの比較で問題としたいのは、前者の死である。ヤスパースはここで、後者の死の、「死ぬことの恐怖」に対し、前者の死の「死ねないことの恐怖・苦しみ」について語る。この死ねない恐怖は、レヴィナスのイリアに類似している。

 「実存が存在しなくてもなお存在する現存在は、可能性も活動も伝達ももたない涯しのない生存の恐怖となる。私は死んでいるのに、しかもこうして生きねばならない。私は生きていないのに、しかも可能的実存として、<死ぬことができない>という苦悩を受ける。徹底的な非存在の安静は、このような永続する死の恐怖に対する救済であるだろう。」(PhII.227)

 実存が無いのに、現存在だけがありつづける不安・恐怖について語っている。そしてまた、不安・恐怖が感じられるのは、自己が単に現存在であるからでなく、可能的に実存でありつづけるからであり、現実的に実存しなければならないという責めから逃れられないからである。

 現存在の自己中心主義を超えて、実存することを願う可能的実存であるにも関わらず、現存在の自己中心主義から逃れられない苦しみ。

 ヤスパースは、この死ねない恐怖から如何に逃れられるかについては、触れていない。しかしレヴィナスの場合、この死ねない恐怖、存在の災禍は、自己中心主義者としては死ぬこと、つまり他者のための身代わりに死に得るということを介して、脱出の道が開かれるのである。自殺することも、自然に死ぬことも、自己中心主義を超えることではない。

 「忍耐は私が誰かによって(par)、誰かのために誰かの代わりに死にうるような世界においてのみ生起する。このことは死を新たなコンテクストにすえ、死という概念を変容せしめる。つまり、死は私の死であるという事実に由来する悲愴な味わいが死から拭い去られるのだ。換言するなら、忍耐する意志は自我中心性という殻を破る。」(TI.217/370-1)

 自我中心性を越えるということは、究極的には自己の死を越えて、他者のために死ぬというところまでいくわけである。



4.3.2 他者の死



 ヤスパースは「最も身近な人の死(Tod des Nachsten)」について考察している。私が決定的な実存的交わりを結んだ、愛した他者は、死んでも「いつまでも実存的に現前し続ける」。(PhII.222/303) もちろん生前と同様に現前し続けるのではない。愛した人の死は「胸がきしむような憧れ(vernichtede Sehnsucht)、別離の身にしみ入るような堪えがたい思い(das leibhafte Nichtertragenkonnen der Trennung)」(ff.)を伴う。

 しかし、むしろそれだからこそ、愛した人の掛け替えなさ、その愛した人の<存在>を、痛感するのである。この観点はレヴィナスの他者観の基本でもある。他者の不在によって、むしろ逆に、他者の存在そのものが理解されること、他者の現前に対して私が常に遅れてしまっていること、隔時性、過ぎ越し、などのことがらの考察が行われる。

 しかしヤスパースの場合、他者の死は他者の実存の消滅ではない、というようなことははっきりと言ってはいない。他者の死によって明確になることは、他者の実存というよりむしろ、それまでの他者との実存的交わりによって明らかになってきたところの、[人というものが本質的に孤独でなく]他者と共にあるということ(共存在)や、超越である。「実存は、他人の死を介して、超越の中に住まうようになったのである」(PhII.222/303)とも言われる。

 そして、他者の死によって、「消し去ることのできない苦痛の根拠に基づいた、いっそう深い明澄な境地が、可能なのである。」(ff.)



4.4 責任について



 レヴィナスにおいて責任の根拠は何なのだろうか。

「(歴史の「彼方(au deja')」としての)終末論的なものは諸存在をしてその十全なる責任に目ざめさせ、責任を果たすようにこれらの存在に呼びかける。」(TI.XI/17)

 といわれているように、彼の場合、いわば世界内的なものの彼方(他者、神)との関係のなかで責任が発生してくる。

 ヤスパースにおいても形而上的責任の「審判者は神だけである」と言われているように、責任発生の基準、応答の基準は神である。

 しかしまた、ヤスパースは、具体的に他者との実存的交わりを紆余曲折の過程を経つつ実現できた者のみが、形而上的責任を自覚できるという前提条件をつけた。

 この点はレヴィナスにおいても、<家>において迎える女性の他者によって形成される親密さを、真の他者との対面の前提条件としているので共通する。

 この流れは、ヤスパースにおいてもレヴィナスにおいても共通するのである。

 既にして愛されているということ、生かされているということ、自らの受ける恵みが、決して自分の力によるのではないということ。水や空気や食料がふんだんに与えられているという元基のあり方においてもそうだし、最終的に実存的交わりを成就するにも、自分たちの努力以上のものが常に与えられて成就するのである。[「(実存的交わりの成就には)私に依存しなかったものが常に付け加わらねばならない。」(PhII.60/114)] というように、他者に比べ、不等に愛されていること、愛される者として選ばれているということ、このことは自らにとって責めである。

 より詳しく見れば、負い目が発生する理由としていくつか考えられる。

 1、実存的交わりを結んでいる親密な他者に対する私の姿勢と、他の他者に対する私に姿勢に差異があり、私が他者を不平等に扱ってしまっているゆえに、である。特にヤスパースの場合。

 2、他者との親密な交わりが不思議にも、贈与、幸運、によって可能となったり、生活面でも、例えば裕福な国に生まれて恵まれているゆえ、そうでない他者に対して負い目があるということ。特にヤスパースの場合。レヴィナスにもそういう部分がある。

 3、すでにして存在するということ、元基において恵まれているということ、このことゆえに、他者との差異はないが、すでにして神に対して負い目があるということ。とくにレヴィナスの場合。

 このように、大筋においてはヤスパースとレヴィナスで共通するものがある。違いが出るのは、具体的な、そのつど唯一的な他者との関係においてである。ヤスパースは、自己にも他者にも同じように責任が課せられるのに対し、レヴィナスは一方的に自己が負う。



4.5 例外と犠牲について



4.5.1 自己反省によって、例外でありうる



 ヤスパースは全体性に還元されないものとして、「例外(Ausnahme)」を挙げている。例外は、人格として、自己であるか他者であるかである。この例外は、世間の中では例外として異質なものであり、犠牲者とならざるをえない。

 「例外とは普遍的で抽象的な否定的なものの類ではなくして、歴史的に具体的な一回性として否定的なものにおいて同時に肯定的なものである。この肯定的なものは本質的に犠牲(Opfer)である」(VdW.750f./4-314)

 と言われている。具体的に、イエス、ソクラテス、キルケゴール、ニーチェなどを挙げている。実際、歴史上の多くの、常に独創的で自己に忠実であろうとした哲学者は同様な運命をたどった。またヤスパース自身も、自己自身に誠実であろうとすることで、戦時中も、戦後も、常に社会と対立し、孤独な立場に追いやられることが多かった。例外と犠牲との関係の思想は、彼自身の体験にも根ざしているのである。

 ヤスパースによれば、例外が例外であるのは、単に存在することだけによるのではない。「例外は、例外が絶えず自己と自己の意味に関して反省するときにのみ、存在している。例外は、…内面的に反省された、反省を通じて真理に関係づけられた、自己自身を探求する例外的存在である」(VdW.752)と言われている。

 他者が、自然に在るがままにでは、例外ではありえないというのはヤスパースらしい思想である。他者は他者で、自己自身であろうと努力することが必要なのである。レヴィナスは他者に要求はしない。

 

4.5.2 例外の真理のありかた



 ところで、そういった犠牲者としての例外は、私にとっては何なのか。「例外はわれわれにとっての真理となり得る」(VdW.758/4-331)と言われている。しかし、「例外は燈台のように道程の限界に立つものである。例外は形而上学的な諸根拠に基づいて開明し、方向を与えるものであり、例外は道程そのものを要求したり、示したりしないのである。例外は、われわれに近づきながら、開明においてわれわれを同時に突き放し、われわれ自身に帰還させるのであり、これによってわれわれは一層よく、一層真実に、そして一層明らかに自己自身の道を見出すようになるのである。」(VdW.758/4-331)

 例外は、権威として道を指し示してくれる教祖のような存在ではない。聖者も、そこに身を委ねるべき対象であったりするのではない。聖者も、例外としてむしろ常に欠陥であることが特徴的なのである。

 「しかし人間のこのような形姿は、同時に特殊な人間存在の形姿であり、この形姿はみずからの固有の偉大さを法外な欠如によって可能にしているのである。イエスは例外者である。イエスはいかなる完全な人間でもない。何故なら、イエスは世界のなかの現存在の諸実在、国家、経済、結婚、文化財の諸領域のなかで歩み入らないからである。」(VdW.854f./4-520f.)

 この聖者観においても例外者同士の交わりというヤスパースの思想が貫かれている。



4.5.3 犠牲と援助



 犠牲とは何のための犠牲なのか。先に少し触れたが、他人のために「方向を与える」ということがある。しかしせいぜいそれだけなのであって、「いかなる人間も本質的には他人を助けることはできない。」(VdW.847/4-506)のである。ここにおいてレヴィナスの「身代わり」の思想との差異は大きい。ヤスパースは、人間の間で生じる援助について二つ挙げており、一つは実践的技術的行為による場合、もう一つは、「誰もが実際のところそこにおいて他の存在と共にあって自分自身を助けるような交わりのなかで援助が生じている場合」である。この二つの概念は、ハイデッガーの「現存在配慮の代行」と「手本を示す」の二種類に対応するといえる。後者は手本を示す、のでなく、交わりを主体にしている点でヤスパースらしい。しかし、やはりどちらも、レヴィナスの「身代わり(substitution)」、「人質(otage)」の思想とは根本的な違いがある。



 しかし身代わりも、身代わることによって、自我が消滅するのではなく、第二章で見たように、むしろそれによって真の意味で自我が定立されるのであるから、ヤスパースと共通する点があることを忘れてはならない。

 こう考えると、死が自己の死としてしかありえず、自己が単独化される契機として考えたハイデガーの思想とも共通する。ハイデガーが問題にした自己は、自己中心的な存在ではなかった。



4.6 ニヒリズムと他者



4.6.1 ヤスパースの場合



 ヤスパースもレヴィナスも、ニヒリズムを否定的なものとして、克服しようとする。ニヒリズムは他者(他なるもの)との関係が断たれたところで生起するといえる。他者との関係を、非常に重視する、ヤスパースやレヴィナスは、ニヒリズムの虚無感、倦怠感に、他者への裏切りを感じたのではないだろうか。

 例えば、

 「しかし私が可能なる交わりを、事実的にせよ不用意からにせよ裏切り、しかもその踏まんがもはや交わりへの意志に転化しないならば、私は虚無のうちへ踏み込む。そのとき不満はあたかも私が存在から外へ転落したかのような(aus dem Sein herausgefallen sei)意識となるであろう。」(PhII.56/110)

 ヤスパースはもともと虚無感という意味でのニヒリズムには無縁な人だった。幼い頃から親子関係は抜群によく、夫婦関係も理想的だった。友人は比較的少なかったかもしれないが、真の友人といえる友人が何人かいた。彼は他者との関係の中で、生きてきた。また、他者との関係があって始めて生きることができることを身を持って感じていた。そういう彼は、人生に虚無感は感じなかった。後に研究して著作を書いたニーチェについても、若い頃は反発を感じたらしい(※1)。ニヒリズムは彼の基調とは相容れなかった。またハイデガーの思想に対する抵抗感(※2)も、このことが深く関係しているのではないだろうか。

 彼は、ハイデッガーの「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか(Warum ist uberhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts?)」の問いを根本的なものとは感じなかった。彼にとってはそれは、第一義的な問いではない。存在することの無理由性の自覚、ニヒリズムの空しさ、を介して存在覚醒するというハイデッガーの道について、ハイデッガーの名を挙げはしないが触れている、箇所がある。

 「空しさは、あらゆる内容をもたらす包括者を呼び起こすことにより、あらゆる可能性の覚醒として、その力をもっている。」(『啓治に面しての哲学的信仰』445頁)

 彼はニヒリズムの空しさから開かれる深い可能性を認めてはいる。しかし、

 「しかしその思想は、単なる可能性という空虚のうちにとどまり、あたかも空しさがすでに現実性であるかのように、それを享受するようそそのかす」(ff.)

 と述べており、ニヒリズムの空しさは、根本的に退けられるべきものだと考えている。存在することの無理由性、空しさをそのまま受け入れ引き受けるというような道は退けているようである。

 こうした、ニーチェやハイデガーへの違和感は、彼のニヒリズムへの違和感が原因なのではないだろうか。

 世界の無意味性をそのまま認めつつ、ニヒリズムとともに存在覚醒するというハイデガーの道は、ヤスパースはとらなかった。彼は最後まで、他者との関係に帰る。超越との関係であり、また実存的に交わる他者との、信頼関係、愛の関係、責任関係を守り通す。[絶望は罪である。]

 ヤスパースにおいては、実存的交わりにおける他者との親密な関係があった。他者との信頼関係。たとえそれが断たれるようなことがあろうとも、超越者を友とすることができるという。また、『戦争の罪を問う』の最後の部分でも、『哲学』の最後の部分でも、最終的に「神が存在するそれで十分だ」という神の存在の確信が表明される。他者・神との信頼関係が残り続けるのである。最初に得た確信を、最後まで守り抜くこと、「(信仰とは)望んでいることがらを確信」(へブル人への手紙 11.1)するという原理がヤスパースにつらぬかれている。他者、神との間の信頼関係、これが最初から最後まで貫かれており、戦争体験を通じてもこの信頼関係に揺るぎはなかった。戦争体験は、彼に根本的な変革をもたらしたのではなく、むしろ、揺さぶりを通じて、根を強化した体験だった。



4.6.2 レヴィナスの場合



 レヴィナスは、ニヒリズムが人間にとって最終的に不可避な、根本的な状況であるとは考えなかった。そう考えた理由は二つあると思われる。一つは、一般的にマルクス主義者が行うニヒリズム批判と同じ形のものである。

 「はじめに、満たされた住人ありき。たとえ「空虚」が感得されたとしても、この「空虚」は次のことを前提としている。つまり、この「空虚」を自覚せる意識は、享受の只中にすでに身を置いているのだ。…「空虚」はアタラクシアより”良きもの”たる充足の歓喜を先取りする。」(TI.118/216)

 ニヒリズムの前提条件に享受、経済的条件の段階があることを指摘することで、ニヒリズムの絶対的先行性、特権性、ニヒリズムをを根本問題として設定することを、否定する。

 もう一つは、存在と無の問いの次元の背後に、決して無化されない、他者への責任の次元をもってくることによってである。彼はそうして、ニヒリズムの不可能性という立場をとったことになる。

 レヴィナスの思想がニヒリズムでありえないのは、他者を決して無-視することができないというのが彼の思想の根本的前提だからである。

 また、彼のイリアの思想は、深いニヒリズムを描いているといえる。何の希望も見出しえない夜を永遠に生き続け(永劫回帰)、耐え続けなければならない世界。ヤスパースが、実存する可能性が断たれているのに現存しつづけなければならないという、死の苦しみとして描いた世界。しかし究極的には、このイリアの夜は、他者によって脱出可能となる。



4.6.3 まとめ



 ヤスパースでもレヴィナスでも、結局、他者(他なるもの)との真なる関係が断たれるところにニヒリズムが発生すると考えられている。他者との対面・交わりという究極的境位において、ニヒリズムは克服されるのである。

 他者との関係が本質的に断たれること、ハンナ・アレントはこのことを Verlassenheit, loneliness(見捨てられていること、孤立)と言った。また他者との関係が本質的に結ばれている中で、不可欠な要素としての他者との分裂のことを Einsamkeit, solitude (孤独)と言った。

 ヤスパースもこうした分類をしている。例えば、

 「交わりの欠如における絶対的孤独と、最も身近な人の死によって生じた孤独とは、根本的に違ったことである。前者は、黙りこくって交わろうとしない欠如であり、こうした意識の中では、私は自分自身を知ることがない。これに反して後者の場合には、かつて故人との間で現実となった交わりのどの局面によっても、絶対的孤独は、永久に放逐されてしまっている。私が本当に愛した人は、いつまでも実存的に現前し続けるからである。」(PhII.221/303)

 この文で「交わりの欠如における絶対的孤独」がアレントの「孤立」に当たり、後者の「最も身近な人の死によって生じた孤独」がアレントの「孤独」に当たる。

 孤立において人は、

 「…私が可能なる交わりを、事実的にせよ不用意からにせよ裏切り、しかもその不満がもはや交わりへの意志に転化しないならば、私は虚無のうちへ踏み込む。そのとき不満はあたかも私が存在から外へ転落したかのような意識となるであろう。」(PhII.56/110)

 というようなニヒリズムへと落ち込む。

 一方、実存的交わりにおいて他者と真に出会うとき、自分であることの逃れられなさを超えて、自己の外に立ち、他者と共に存在する自己となること、このことを知ることはそのまま超越を感得させる。[相互依存関係の一体化が或る無制約者を感得させる(PhII.71/126)]

 そのとき相互の存在は、無の深淵に基づいて在るのではなく、超越に基づいて、超越の内にある。こうして自己と他者との真の出会いにおいては、根本的な無限(infini)、無制約性(unbedingtheit)を感得するのである。



 ニヒリズムとは、他者の不在だと考えてきた。他者の他者性(レヴィナス)、他者の唯一かけがえなさ(ヤスパース)が忘れ去られ、他者が慣れ親しまれ過ぎて、当たり前のもの、どうでもいいものとして、無関心に対されてしまう状態が、ニヒリズムの状態だといえる。ただこの他者性、異質性を、存在することそのものの異質性の覚醒として、ニヒリズムと対するのがハイデッガーであり、この点に両者とハイデッガーとの差異がある。



第5章 まとめ



5.1 共通点



 先ず、受けたものを与える、という大きな流れから、レヴィナス、ヤスパースの共通点を確認しておく。

 レヴィナスの思想を大まかに描くと、先ず、イリアの夜の責めの次元があり、そこからの逃走として、存在者・存在の次元があり、最後に欲望と責めの次元がある。

 レヴィナスにしてみれば、ハイデガーは第二の領域しか扱っていないというわけである。存在者・存在の次元が、限りなく与える「存在」から恵みを受けることであり、吸うことに息切れする主体は、今度は欲望と責めの次元において吐くことをするのである。

 ヤスパースの思想についても、この呼吸と同様なことが言える。ヤスパースの理性は実存に基づく。そして、「実存とは、…この超越によって自己を贈与されたことを知り…」(Existenzphilosophie.17/39)と言われる。また、超越とはヤスパースにおいては存在そのもののことであるから、実存とは(存在そのものによって)存在させられていることを知っている存在のことといえる。何の理由もないのに、奇跡的に、不思議にも、存在するということ、特別に存在させられているとさえ思えるこの奇蹟的な出来事(贈与)を理解していること、自らの存在を知っていること、これが実存のあり方である。

 そして、この存在の恵みを知る「実存」に基づいて、今度は逆に、どこまでも他者へと赴いていこうとする「理性」を働かせるのである。



 また、今まで見てきたように、親密な他者との関係を介して、社会的な他者との関係を問題とするという流れも共通している。

 全て、他者、特に他人との関係を通じてのみ、ニヒリズムも克服され、また、神や真理へと通ずる道が開かれるという点でも共通している。



5.2 差異点



5.2.1 レヴィナスの一方性



 根本的差異の原因の一つは、レヴィナスが自分にとってどう他者があらわれるかの観点に限定していることにあるといえる。

 それに対し、ヤスパースは、どの哲学が交わりを可能にするかを重視しているのであり、そのためには「自己の他者に対する態度」の問題を超えて、他者のあり方をも問題とする。



5.2.2 親密な他者と、社会的他者という違い



 また、ヤスパースとレヴィナスの根本的な差異は、前者が親密な他者との関係を、後者が社会的な他者との関係を、それぞれ重点的に扱っていることに由来するとも言える。

 先ず、ヤスパースの場合を見てみよう。

 親密な他者との関係、実存的交わりは、社会性の根拠・前提にもなる、不可欠なものである。それを通してしか、超越や実存といったものが顕にならないからである。最終的には、超越によって贈与されていることを知りつつ、二者間の実存的交わりを軸として開かれた、多元的な社会的関係というあり方こそ、彼の理想とする形であろう。そしてこうした開かれた社会性の次元は、彼がよく主張した「理性」によって切り開かれていくのだろう。彼は、『真理について』においては、実存の交わりと理性の交わりを区別している。

 「実存の共同体としては、この王国は、歴史的に根拠づけられている状態のなかで無制約的、非代替的、排他的に(ausschliessend)実現されるところの、客観的に適切には観察しえず、また決して証明しえない結合体である。

 理性の共同体としては、この王国は、実存の内に根拠づけられている、開放された存在(Aufgeschlossenseins)の普遍性であり、また人間存在そのものの連帯性である。」(VdW.379/2-295)

 具体的にこの二つの交わり・共同体がどう区別されるのかは難しい問題なのだが、それぞれ、二者間の交わり・閉ざされた深さの交わりと、開かれた社会的な広さの交わりに対応すると見ることもできる。

 ヤスパースは、理性は実存に基づくという。このことは、二者間の閉ざされた実存的交わりの中で、両者が超越に基づいて存在していることを知り、その上で、より社会的な複数の人間同士の理性的な交わりの関係が開かれるということを指していると言える。



 一方、レヴィナスは、何より多元的な社会的関係がいかにあり得るかを重点的に問うている。自分を殺そうとさえする他者と、関係を結んでいくためには、実存的交わりのように他者にも相互に自己自身たることを要求するというようなことはもはや不可能である。だから、全てを自己責任として引き受けていくという道しかない。それゆえ、他者の絶対的優越性が主張される、という面がある。

 そこでは、審判する他者との関係に焦点が置かれる。そもそも人間は、心を開き合って交われば、必ず愛し合えるというような善良な存在ではない。負い目ある、罪(原罪)ある存在なのである。その原罪を持った人間同士が交わることが可能となるには、他者に絶対的に仕え、責任を全面的に負う、という償いの道が不可避である。

 この場合は、目の前の他人を、絶対的な他者として認めることに出発するのだがこのことは、他人をすでに神として見て、仕えていくこととほとんど変わらない。[この点はヤスパースが交わりを通じて段階的に超越を認識することとの差異がある。]

 こうした関係の差異から、責任問題についての差異も出てくると考えられる。ヤスパースの親密な二者間の実存的交わりにおいては、両者がともに自己を賭けて実存的交わりに向かわねばならず、それは一方だけの責任に帰することはできず、共同して責任を負い合い、時には他者の責任を問い、共に励まし合いながら交わりへと向かう。

 レヴィナスの場合は、一方的に自己が責任を担わなければならず、自己を殺そうとする他者を前にして、命を差し出しもする。



5.2.3 最終目標の差異



 レヴィナスにおいては、これまで何度も説明してきたように、開かれた社会的関係が最終目標なのである。

 一方、ヤスパースにおいては、実存的交わりを土台として、開かれた社会的関係を結んでいくこと、人間の共同体を形成することが、確かに一つの目標としてある。しかし、それは唯一の最終目標だろうか。実存的交わり、最も深い交わりを介して、超越を確認すること、不退転の境地を得ること、これが究極的な事柄ではないだろうか。実際、主著『哲学』の最後も、そこで終わっている。レヴィナスは、絶対的な不平等性をへて社会的関係の実現するとき、平等が創設されると言った。この平等の成立の後にこそ、平等、同等性を絶対的前提条件とするヤスパースの実存的交わりが可能である。この意味ではヤスパースの実存的交わりは人間関係の最終的な到達点でもある。

 こうした最終目標の差異が、両者がそれぞれ如何なる他者との関係を究極的なものとして扱ったかの差異として、現れてきたのではないだろうか。





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<注>

※1 宇都宮芳明著、『ヤスパース』(清水書院、1962)55頁、参照

※2 『存在と時間』は通読さえしていたかどうか定かでない。ヤスパース著、『ハイデガーとの対決』(紀ノ国屋書店、1981)14頁。ハイデッガーの思想に対する違和感については多くの箇所で読みとれる。

 

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▼参考文献



Karl Jaspers, Die Schuldfrage, Serie Piper(191),1979 (1946)

(『戦争の罪を問う』、橋本文夫訳、平凡社ライブラリー、1998)

K.Jaspers, Philosophie I-III, Springer-Verlag 1973

(『世界の名著75 ヤスパース・マルセル』、小倉志祥他訳、中央公論社、1980。『哲学 (I-III)』、武藤光朗他訳、創文社)

K.Jaspers, Von der Wahrheit, Serie Piper(1001)4.Aful,1991

(『真理について(1-5)』、林田新二他訳、理想社、1976-1997)

K.Jaspers, Existenz Philosophie, Walter de Gryter & Co.,1964

(『実存哲学』鈴木三郎訳、理想社、1961)

ヤスパース著、林田新二訳、『運命と意志』、以文社、1972

ヤスパース著、上村忠雄・前田利男訳、『世界観の心理学(上・下)』、理想社、1971

ヤスパース著、草薙正夫訳、『理性と実存』、理想社、1972

ヤスパース著、重田英世訳、『啓治に面しての哲学的信仰』、創文社、1986

ヤスパース著、渡辺二郎他訳、『ハイデガーとの対決』、紀ノ国屋書店、1981

林田信二著、『ヤスパースの実存哲学』、弘文堂、1971

宇都宮芳明著、『ヤスパース』、清水書院、1962

E.Levinas, totarite et infini, martinus nijhoff publishers,4ed,1984

(『全体性と無限』、合田正人訳、国文社 1989)

E・レヴィナス著、西谷修訳、『実存から実存者へ』、講談社学術文庫、1996

E・レヴィナス著、合田正人訳、『存在の彼方へ』、講談社学術文庫、1999

合田正人著、『レヴィナスの思想-希望の揺籃』、弘文堂、1988

合田正人著、『レヴィナスを読む』、日本放送出版協会、1999

港道隆著、『レヴィナス』、講談社、1997

熊野純彦著、『レヴィナス』、岩波書店、1999 

古東哲明著、『<在る>ことの不思議』、勁草書房、1992

西谷啓治著、『ニヒリズム』、弘文堂、1949

渡辺二郎著、『ニヒリズム』、東京大学出版会、1975

岩田靖夫著、『神の痕跡』、岩波書店、1990




論文題目:ヤスパースとレヴィナスにおける、自己と他者との関係

(2001.1)

広島大学大学院社会科学研究科国際社会論専攻(比較哲学)

藤枝貴志

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以下、論文要旨。その後、全文を掲載しています。



【論文要旨】



序論



 本論文の目的は、ヤスパースとレヴィナスそれぞれの思想における、自己と他者との関係を、分析し比較し、両者の共通点と差異点を確認することである。ヤスパースにおける自己と他者との関係は「実存的交わり」を軸としたもので、これについては、主に彼の主著『哲学』(Philosophie I-III. 1933、以下,PhI-III.)に基づいて、第三章で扱う。レヴィナスにおける他者との関係については、彼の第一の主著『全体性と無限』(Totalite et Infini. 1960、以下、TI.)に基づいて、第二章であつかう。おおまかな特徴をいえば、ヤスパースの場合は、他者との関係が平等なのに対して、レヴィナスの場合は他者が絶対的優位の立場にある。

 しかしまた、ヤスパースは『戦争の罪を問う』(die Schuldfrage. 1946、以下、Sf.)の叙述においては、他者との関係において、レヴィナスに似た構造を持っているので、それを先ず第一章で、概略を述べつつ検討する。その後、第二章でレヴィナスの他者との関係について述べつつ、第一章のヤスパースの構造との比較を行うことになる。その後、第四章でヤスパースとレヴィナスの思想について、より踏み込んだ観点から、いくつかの分析を行う。最後に第五章でまとめをする。



 ヤスパースの『戦争の罪を問う』において、他者に対する責任が発生する源は、実存的交わりにおいて結んだ親密な他者との関係を、他の多くの他者とは未だ結んでいないというところにある。そして、この責めの意識は、一般的には説明しがたい意識であり、真に人間としてあるかぎり、生まれながらにして持っている責めの意識である。

a 道徳的、形而上学的罪は生涯、償われないこと。

b 「たえず自己自身になろうという内的な過程」である(実存の変容)

c 「自我」が砕かれる、自由になる



 レヴィナスの思想における他者との関係を概観し、ヤスパースの『戦争の罪を問う』と比較すると、両方に共通する点として、以下のものが指摘できる。

1、他者の絶対的優位性(常に自己は負い目がある立場)

2、他者への無限責任

3、無限責任を果たそうとすることを通じて、自己中心的な自我が砕かれ、真に自我が定立される。そこに救いがある。



 ヤスパースの実存的交わりの特徴は、親密な2者間に限られた関係であること、2者間の同等性が交わりの前提であること、などがある。この点では、先に見たレヴィナスと対照的である。



 このような差異が出てくる原因の一つには、両者の神観の相違がある。レヴィナスの場合、他人と神が直結しているので、他人が必ず上位にくる。ヤスパースの場合、神の下での平等という思想に基づき、他人との関係は根本的に平等である。

 また、ヤスパースの実存的交わりの親密な関係は、複数の人間の社会的関係の前提となるべき次元の他者との関係をさしており、レヴィナスの他者との関係は、最初から直接的に、社会的関係が如何にして可能か、という観点に絞られている、という違いが、根底にあると思われる。



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(以下、論文の全文)



論文題目:ヤスパースとレヴィナスにおける、自己と他者との関係



藤枝貴志



(2000.1)



◆目次



序論



第1章 ヤスパースの『戦争の罪を問う』に関して



1.1 罪の四つの区分

1.1.1 刑法上の罪

1.1.2 政治上の罪

1.1.3 道徳上の罪

1.1.4 形而上的な罪

1.1.4.1 罪の発生源

1.1.4.2 審判者としての他者・神

1.1.4.3 道徳上の罪と形而上的な罪との区別について

1.2 罪の清め

1.2.1 実存変容としての清め

1.2.2 特徴

1.3 民族の罪について

1.3.1 民族の罪と政治上の罪の区別

1.3.2 責めを負う共同体。民族から人類へ

1.3.3 混乱状態をチャンスとして



第2章 レヴィナスの思想における他者との関係



2.1 ヤスパース『戦争の罪を問う』と、レヴィナスとの共通点

2.1.1 他者の絶対的優位性、同時に、まったき弱者としての特徴

2.1.2 責任の性質:この責任は決して償われないこと、生まれ出た限りの負い目であること。またそれは応答責任であること。それによる自我の定立。

2.1.3 我意がないことで自我が確立され、そこに救いがあること。(我意がなく、ただ他のために在るという喜び)

2.1.4 まとめ

2.2 レヴィナスにおける二種類の他者

2.2.1 分離における女性

2.2.2 審問する他者の迎接



第3章 ヤスパースの実存的交わり



3.1 交わりの過程全体

3.1.1 自己が他者へ向かう動機について

3.1.2 交わりの過程

3.1.2.1 関係の相互性の問題

3.1.2.2 一義性、多義性。相互公開について

3.1.2.3 愛しながらの闘い(Liebender Kampf)とは

3.1.3 交わりの実現

3.1.3.1 垂直の出会いと水平の出会い

3.1.3.2 愛は、関係が達成されて初めて、明らかになる

3.2 他者との同等性

3.3 まとめ



第4章 様々な局面からの比較



4.1 神について

4.1.1 神秘主義の克服

4.1.1.1 レヴィナスの神秘主義克服の道

4.1.1.2 最終的境位としての対面

4.1.1.3 言語に基づいた倫理的な対面関係

4.1.2 他者と神。ヤスパースの神の下での平等。レヴィナスの他者と直結した神。

4.2 親密な二者間の閉ざされた関係と、開かれた社会的関係

4.3 死について

4.3.1 自己の死

4.3.2 他者の死

4.4 責任について

4.5 例外と犠牲について

4.5.1 自己反省によって、例外でありうる

4.5.2 例外の真理のありかた

4.5.3 犠牲と援助

4.6 ニヒリズムと他者

4.6.1 ヤスパースの場合

4.6.2 レヴィナスの場合

4.6.3 まとめ



第5章 まとめ



5.1 共通点

5.2 差異点

5.2.1 レヴィナスの一方性

5.2.2 親密な他者と、社会的他者という違い

5.2.3 最終目標の差異



◆凡例

・言いかえ・出典・原語は( )内に、補説や注釈は [ ] 内に記す。

・原文での強調箇所は傍点を振った。

・略号は以下のとおり。

Sf,   die Schuldfrage, 1946  (K.Jaspers)

PhI-III,   Philosophie I-III, 1933  (K.Jaspers)

TI,   Totalite et Infini, 1960  (E.Levinas)

VdW,   Von der Wahrheit, 1948  (K.Jaspers)

それぞれ、初めに原著のページを、スラッシュ "/" の後に翻訳のページを掲載する。基本的に翻訳どおりだが、適宜訳し直した。





序論



 本論文の目的は、ヤスパースとレヴィナスそれぞれの思想における、自己と他者との関係を、分析し比較し、両者の共通点と差異点を確認することである。ヤスパースにおける自己と他者との関係は「実存的交わり」を軸としたもので、これについては、主に彼の主著『哲学』(Philosophie I-III. 1933)に基づいて、第三章で扱う。レヴィナスにおける他者との関係については、彼の第一の主著『全体性と無限』(Totalite et Infini. 1960)に基づいて、第二章であつかう。おおまかな特徴をいえば、ヤスパースの場合は、他者との関係が平等なのに対して、レヴィナスの場合は他者が絶対的優位の立場にある。

 しかしまた、ヤスパースは『戦争の罪を問う』(die Schuldfrage. 1946)の叙述においては、他者との関係において、レヴィナスに似た構造を持っているので、それを先ず第一章で、概略を述べつつ検討する。その後、第二章でレヴィナスの他者との関係について述べつつ、第一章のヤスパースの構造との比較を行うことになる。

 第一章で『戦争の罪を問う』、第二章で『全体性と無限』、第三章で『哲学』をそれぞれ扱いつつ、同時に相互の比較も行う。その後、第四章でヤスパースとレヴィナスの思想について、より踏み込んだ観点から、いくつかの分析を行う。最後に第五章でまとめをする。



第1章 ヤスパースの『戦争の罪を問う』に関して



 ヤスパースはドイツの敗戦直後、一九四五年から四六年にかけての冬学期、ドイツ人の罪をテーマとした講義を行った。それを整理した著作が "die Schuldfrage. 1946"(邦訳『責罪論』理想社、1965、橋本文夫訳。一部改訂『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー、1998)である。ドイツの国民・民族としての責任について、外国人からもドイツ人からも様々に議論されていた時に書かれたものである。

 本の内容は、先ず目安として罪を四つに区分し、どのようなものとしてそれらの罪を受け止め、そこから何を学び、未来に生かしていくかを説くものである。哲学の専門的な議論ではないが、交わり、対話の精神、限界状況としての責め、など、彼の哲学的精神の応用といえる要素が多く含まれている。

 この著作では、Schuld(責任・罪・負い目)をキーワードに、他者との関係が描かれているといえる。その場合、他者は、それに対して責任を負っている他者であったり、また、共に責め・負い目を分かち合う人たちであったりする。

 先ずはキーワードである、Schuldについての彼の四つの区分についてみていくことにする。



1.1 罪の四つの区分



1.1.1 刑法上の罪(Kriminelle Schuld)



 刑法上の罪は法によって責任を問われる罪である。「刑事犯罪は明白な法律に違反する客観的に立証し得べき行為において成立する。審判者は正式の手続きを踏んで事実を信頼するに足る確実さをもって確定し、これに法律を適用するところの裁判所である」(Sf.21/48)と言われている。例えば、戦犯はこれにあてはまる。明確な「法」によって責任を問われ、刑に服す。



1.1.2 政治上の罪(Politische Schuld)



 政治上の罪は、国家の保護下にあり、その構成員である国民である限りにおいて問われる責任、罪、である。

 「この罪は為政者の行為において成立し、また私が或る国家の公民であるために、私の従属する権力の主体でありかつ私の現実生活の拠って立つ秩序の主体であるこの国家の行為によって生ずる結果を私が負わなければならないという場合に、その公民たる地位においてこの罪が成立する。すべての人間がどのような支配を受けるかは、本人の責任でもある。」(Sf.21/48-9)

 具体的な償いとしては、戦後の戦勝国への、賠償などにより、国民全体が苦難を通過し責任を払うことになる。



 刑法上の罪と政治上の罪には、外から課される法的な刑の履行の責任(Haftung)が課され、それに対して具体的に、刑に服するとか、苦難を通過するということで、全うされるものであり、それ以上責任は問われない。

 しかし、以下に見る道徳上の罪と形而上的な罪は、他者が責任を問うことはできない。あくまでその個人による自覚に任せられている道徳的・内面的な罪である。その点で刑法上の罪、政治上の罪と区別される。

 だから、刑法上の罪、政治上の罪が成立しても道徳上の罪、形而上的な罪が成立しない合がある。例えば、道徳的に罪が無くても、起こった結果に対しては法的責任を負わなければならない。「(法的)責めを負わせる(Haftbarmachen)ということは、道徳上の罪がある(moralisch schuldig)と認めることではない。」(Sf.45/94)

 また、「政治上の責めを負うことは、各個人にとっても、そこから生ずる恐るべき結果から見て、つらいことである。それはわれわれにとって完全な政治的無力を意味し、長期間にわたって飢餓と寒さと、あるいはほとんどそれに近い状態におとしいれられ、生きるためのしがない努力を強いられるといったような貧困を意味するのである。けれどもこのような責めを負うことそれ自体は、なんら魂に触れるものではない。」Sf.45/94-5)

 と、いわれている。

 もちろん逆に、こちらの方が一般的なのだが、刑法上の罪、政治上の罪が成立しなくても、道徳上の罪、形而上的な罪が成立する場合もある。



 道徳上の罪に移る前に、政治上の罪についてもう一歩踏み込んでおく。政治上の罪は、「個人は国家による保護下で生活できている」ということを、各個人が国家の罪に対する(外的)責任を負う理由としている。

 「生きる上に頼りとしている権力関係のなかに巻き込まれてしまっているということ(verstrickt zu sein in Machtverhaltnisse)が、人間だれしもののがれられぬ致命的な災厄(Verhangnis)である。これはすべての人間ののがれられない罪、人間としてのあり方の罪である(die Schuld des Menschseins)。正義ないし人権を実現するような権力のために献身的な努力をすることによって、この罪に対抗していくのである。」(Sf.23/52-3)

 国家の犯した罪に対する、外的な責任[債務、Haftung(損害賠償義務を課される行為者の立場)]が各個人に課せられるわけだが、その前提には、国家に対する各個人の責任、負い目といった、また別の意味での Schuld がある。それは、こうした社会的存在としてしかありえないという、「人間としてのあり方の罪(負い目)」である。この社会的存在であるという「負い目」によって、人間はその社会的に属する集団・国家と、切り離され得ないのであり、それゆえ、国家の犯した罪に対する賠償責任、債務、が生じてくる。

 この政治上の罪で、ヤスパースはあくまで政治的・法的問題として、個と集団との関係を問題としている。だから「国家」の問題なのであり、決して「民族」[血縁とか文化的共通性とかに基づく]を問題としているのではない。



1.1.3 道徳上の罪(Moralische Schuld)



 「私が結局はどんな場合にも私一個人としてなす行為について、しかも私のすべての行為について、したがって私の政治的および軍事的行為についても、私は道徳的な責任(Moralische Verantwortung)がある。「命令は命令だ。」ということは決して無条件には通用しない。命令された場合でも(危険、脅迫、恐怖の程度如何に応じて酌量すべき事情は容れられるが)、むしろ犯罪はどこまでも犯罪であるのと同様に、いかなる行為もまた道徳的判断にどこまでも服している。審判者(Instanz)は自分の良心(eigene Gewissen)であり、また友人や身近な人との、すなわち愛情をもち私の魂に関心を抱く同じ人間(Mitmenschen)との精神的な交流(die Kommunikation)である。」(Sf.21/49)

 道徳的罪とは、自分の、具体的行為に対して「道徳的良心」によって問われる罪といえる。たとえ刑法上の罪の場合のように、刑法により法的に裁かれたとしても、この罪はまた別に存在し、永遠に存続する。また明らかな犯罪的行為でも、法にあてはまらなければ、刑法上の罪として問われない(罪刑法定主義)。つまり他者が責めたりすることができない領域となる。つまり本人の良心に任せられる領域となる。

 審判者は自分の良心といわれている。また親密な人間との交流が良心の自覚を促す場合もある。自分の良心であるかぎり、この審判基準は各々でまちまちのレベルであると考えられる。良心は絶対的なものでなく、社会的にも形成されたものであろうから。後に見るレヴィナスのように、他者が審判者であるのではない。親密な人間との交流が[良心として]審判者となるばあいでも、親密な人間は、審判者としての他者とはむしろ逆の存在とも、いえる。

 この交流(die Kommunikation)は、後に第三章で扱うヤスパースの「愛しながらの争い(Liebender Kampf)」である「実存的交わり」のことを指している。

 「少なくとも愛しながらの争いというような連帯関係(die Solidaritat liebenden Kampfes)にあるのでなければ、他人の罪を認めるということはできない。自分が当の本人だといえるくらいの内面的な繋がりをもって人を裁くのでない限り、なんぴとも他人を道徳的に裁くことはできない。他人が私にとって私自身と同じように考えられる場合にのみ、結局は人間各自が一人きりで行うはずのことを、自由な精神的交流を通じて共同の任務たらしめるだけの近さがあるわけである。」(Sf.27/60)

 ヤスパースは他人の道徳的罪を問題とする場合には、深い愛による結びつきを前提条件としている。こう指摘することで戦後当時の、とげとげしく他人の道義上の罪を訴える状況に対して、戒めているわけである。このように彼は「互いに意見を押しつけないようにしよう」といいつつ、また一方で「とはいえ、力を合わせて真理を探究するからには、互いにいたわり合って遠慮したために制限が生じたり、好意的な沈黙や、欺瞞による慰めが行われたりしてはならない。発してはならない問いはない」(Sf.12-13/22)という姿勢を説いている。

 ここには「愛しながらの争い」(Liebender Kampf)と言われているように、相手を愛で受け容れ、信頼しあいながらも、相手の罪に関しては、自分も共同の課題として引き受けつつ、真理であるからには、相手が苦痛を伴おうとも、相手に自覚させ引き受させるという彼の思想が表れている。



1.1.4 形而上的な罪(Metaphysische Schuld)



1.1.4.1 罪の発生源



 形而上的な罪とは、「道徳的良心」よりもさらに奥深い意識を基準として発生する罪意識といえる。

 「そもそも人間相互間には連帯関係というものがあり、これがあるために人間は誰でも世のなかのあらゆる不法と不正に対し、…共同責任を負わされる(mitverantwortlich)のである」(Sf.21/49) といわれる。ここでいわれる責任が形而上的な罪のことである。

 先ずこの「人間相互間の連帯関係(Solidalitat zwischen Menschen)」について見てみる。この連帯関係は、実存的交わりによって初めて至高体験として達成され、理解される他者との深い連帯関係である。

 「形而上的な罪を最も深刻に意識するのは、ひとたび絶対的な境地に達し、しかもこの境地に達したがゆえに、むしろこの絶対的心境をあらゆる人間に対してまだ発動させていないという自己の無力さを感じさせられた人々である。[伝えて、人々の実存を変革させてあげられなかった責め]絶えず脈々と動いてはいながら具体的にはこれぞといってその正体を指摘することができず精々一般的に論ずるぐらいのことしかできないといった何ものかにともなう引け目(羞恥; Scham)が、依然として残るのである。」(Sf.22/51)

 「ひとたび絶対的な境地に達し」とは、おそらく彼の実存的交わりにおいて真の他者との深い連帯性の体験のことである。いわば具体的な至高体験が基準になっている。この点は、絶対的弱者としての他者との対面を原点とするレヴィナスとの差異があるように思われる。ヤスパースの場合、そのような弱者としての他者との対面以前に、他者との実存的交わりに基づいた深い連帯性の体験が不可欠なのである(しかしレヴィナスの場合も、後にみるように<家>において女性の他者による迎接の段階がある。それでも、この段階の重要性のインパクトは比較的薄く、やはり絶対的弱者としての他者との対面に何より重きをおいていると思われる)。ヤスパースは他者との関係の原型を、この章で確認するような責任問題、差異性の問題に基づいて論じず、他者との平等な愛の交わりにおいたのである。戦前も戦後も("die Schuldfrage" 以前も以降も。戦前の主著『哲学』でも、戦後書かれた第二の主著『真理について』でも)、他者との関係の基本形を、平等な愛の実存的交わりにおく姿勢は一貫して変わっていない。

 「人間相互の連帯関係」とか「絶対的境地」とか言われているものは、実存的交わりの思想の原体験である彼と妻ゲルトルートとの深い関係に根ざしている。このことは、はっきりとこの著作の中に認められる。「二人の人間のいずれかに対して犯罪が加えられるとか、二人が物的生活を共にしなければならないとかいう場合に、ともに生きるとか、あるいは死ぬかのどちらかしかないという絶対的な関係が、或る場合には二人の人間の間に通用するということが、かれらの本質性格の実体をなしている。」(Sf.22/50)

 彼は、ナチスから、ユダヤ人である妻との離婚を命ぜられ、それに抗して大学を退くこととなり、その後敗戦までの間、妻と共に、妻がナチスに連行されていくかもしれないことに、たえずびくびくしながらドイツで生活していた。その様子は自伝を編集した著作『運命と意志』(Schcksal und Wille.1967)に詳しい。その中で次のように言われている。(以下、日記の抜き書き)

 「1939.3.17 …だが私たちの行動の基本は、常に私たち二人が互いに離ればなれにならないということでなければならない。人種区分によって私たちを引き離そうとするような世界が私たち二人の間に侵入しないということ、また私たちは絶対的な連帯をもったものであって、いくつかの条件の下で連帯を保っているのではないということが基本でなければならない。」(249頁)

 「1940.11.16 しかし私は、彼女が私を置いて死んでゆくことには堪えられない。彼女を死へと追いやる権力は私をも殺すことになる。私たち二人のこのつながりは絶対的なものである。」(256頁)

 「1942.5.2 ゲルトルートを暴力から守ってやることができない場合には、私もまた死ななければならない。ーこのことは、男性の純粋な品位に属することである。… 心の深みから静かで信頼できる声が、私は彼女のものだと語りかけてくる。人間の意志(それは自然ではない)が私たち一方を襲って滅ぼす場合には、私たち二人が襲われているのだと考えることは神意にかなうことである。永遠に相互に結合されているもの、お互いのために一つの根源から生み出されたものが、生きている間に暴力で切り離されることはありえない。」(260頁)

 そして「しかしこのことがあらゆる人間の連帯性によるのでもなければ、国家の公民の連帯性によるのでもなく、ましてそれ以下の小集団の連帯性によるのでもなく、きわめて緊密な人間的結合にだけ見られるということが、われわれすべての人間のもつこうした罪の生ずるもととなるのである。」(Sf.22/50)と言われる。ここにおいてレヴィナスとの差異は、際立っている。レヴィナスはそこまで「きわめて緊密な人間的結合」を強調しないだろう。

 「実存的交わり」とこの形而上的な罪との関係については、以上見てきたことから、実存的交わりの実現の体験が、この罪意識の生起の原因となるという関係があるといえる。形而上的な罪の場合は、道徳上の罪の場合のように、実存的交わりの過程が、相手にこの罪を自覚させる、というわけにはいかない。



1.1.4.2 審判者としての他者・神



 形而上的な罪では、「審判者は神のみである」(Instanz ist Gott allein)(Sf.22/50)と言われている。レヴィナスにしても他者とは、現前する他人ではあるが、あれこれの心理状態を持った被害者としての他人ではない。例えばある他人は、私に「謝罪してほしい」と思っているかもしれないし、「謝罪してもらっても失われたものはどうにもならない」と思っているかもしれないし、「これを機に悔悛して生まれ変わってほしい」と思っているかもしれないし、「殺したい」「恨み続けてやる」と思っているかもしれない。ヤスパースにしてもレヴィナスにしても、具体的な他人の心理状態は問題とならない。そのような「他人」は審判者とはならないのである。

 その意味でレヴィナスの審判者としての他者とは、具体的な他人ではなく、むしろ神的な存在となのであり、実際、神のことなのかもしれない。



1.1.4.3 道徳上の罪と形而上的な罪との区別について



 形而上的な罪は、道徳上の罪が、自分の具体的行為に対して問われるのと違い、自分の行為云々に拘わらず、実存的交わりを知った者として、すでにして生きている限り、負っているような責め、負い目なのである。

 自分の個別的な行為に関わらず負っている責めとして、先に政治上の罪の箇所で見た「社会的存在としての負い目」と共通する点があるが、より内的なものである。

 また別の言い方をすれば、道徳的のレベルが、世界内の目的実現を最終的基準としているのに対し、形而上的のレベルは文字どおり形而上的(meta-physisch)なものが基準となっていると言える。

 例えば、次のように言われている。

 「私が他人の殺害を阻止するために命を投げださないで手をこまねいていたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが[もしその他人が妻なら彼は命を投げ出して止めようとしたであろうから]、この罪は法律的、政治的、道徳的には、適切に理解することができない。」(Sf.22/49-50)

「しかし生命を犠牲にしたところで何の目標も達せられないことが明らかに分かっている場合には、道徳上からは生命を犠牲にせよという要求は成り立たない。…それは現実世界内部で設定される目的からみて無意味なことは避けて、現実世界における目的実現のためにおのれの一身を全うせよということである。

 けれどもわれわれの心のうちには、これとは別な源泉をもった罪の意識がある。形而上的な罪とは、いやしくも人間との人間としての絶対的な連帯性が十分にできていないということである。」(Sf.52/110)

 世界外的なところまで、つまり、死を越えてまで、実存的な愛の交わりは結びつくことを要請する。そのような人間同士の結び付きが、あらゆる個々の人間と、できつくしていないことに対して負う責めなのだから、生きている限り背負いつづける責めであるわけである。

 またこの道徳上の罪と形而上的な罪との区別は、彼の実存的交わりの至高体験だけでなく、ヤスパースの具体的な戦争体験にも基づいていると思われる。つまり、自分の周りのユダヤ人たちが強制収容所へ移送されていくのを、無意味と分かりつつも命がけで止めようとしなかったことを通じて、感じたヤスパースの直接的な罪意識の体験も大きな要素だっただろう。このような事態(ナチス独裁)になる前に、私には何も尽くす手はなかったのか、何のために今まで生きてきたのか、と感じただろう。「そんなことが起こった後に、まだ生きている、ということが拭いがたい負い目として私にのしかかる(Dass ich noch lebe, wenn solches geschehen ist, legt sich als untilgbare Schuld auf mich.)」 (Sf.22/50)とも言っている。 

 自己の行為にかかわらず背負う、他者に対する負い目、これが後に見ていくレヴィナスとの最も重要な共通点といえる。つぎに「罪の清め」について見ておきたい。それによって、さらにいくつかの共通点が確認できると思われる。



1.2 罪の清め(Reinigung)



1.2.1 実存変容としての清め



 普通、罪の償いにはマイナスイメージが伴う。確かに法的に刑に服したり、戦後賠償のために経済的困窮を強いられるのは外的に苦しいことである。しかし罪を償うことは、単に、それによって、罪を犯す前の時点の状態に戻ることではない。

 償いは、罪を背負う行くという形になるのだが、「われわれが一生涯背負って歩く重荷、その重荷を通じて、われわれは、こよなく貴重な宝すなわち我々の永遠の本質を成熟の域に達せしめるべきなの」(Sf.59/127)である。

 また、「道徳上の罪と形而上的罪とは、…罪滅ぼしということがない」のであり、それを担う者は「生涯終わることのない過程に足を踏み入れるのである」(Sf.84/181)。

 それは根本的な実存変容の道なのである。

 つまり、具体的な罪をきっかけとして、人間としての在り方[社会的存在として担う国家に対する責任[政治には無関心でいられないこと]、道徳的罪としての自己の弱さ、形而上的罪として人類全体に対する根本的責任]に気付き、「人間とは何か」をはるか彼方に洞察し、それを自己変革へと生かしていくことを、ヤスパースはこの清めに関する章で説いているのである。



 ヤスパースが清めに関して述べているものの中で、やはり一番のメインは、形而上的罪の清めのことである。罪はいくら重く私にのしかかり、永久に消えないといっても、私を押しつぶしてしまう訳ではない。罪は、私の持っていた余計なもの、傲慢な心、不純な心、それらを自覚させてくれた。その後にも、私が生きていこきうるとするなら、それはそれらの不純なものが、清められた存在として生きていくこと以外にないだろう。

 「…完全な敗戦状態にあって死よりも生を選ぶ者葉、生きようとする決意がどのような意味内容をもつかということを意識しながらこうした決意に出るのでなければ、今やおのれに残された唯一の尊厳ともいうべき真実の行き方をすることができないということである。」(Sf.78/167)

 アウシュビッツ以降、ヒロシマ以降、人間がそれでもなんらかの尊厳をもって生きていきうるとするなら、それはどのような在り方なのか。それをヤスパースは描いているともいえる。戦後、罪意識にまみれたルサンチマンに陥るか、罪を引き受けることを拒否して居直るか、どちらかに陥ることの多かった日本人にとっても、彼のこの著作は、多くの示唆に富んでいるといえる。実際、日本の状況にとって、この著作からは何が学びうるのか。刑法上の罪と政治上の罪は、外的に実際に法に服せばよいことであり、とりあえずは完了しており、中心問題にはならない。中心的問題となるのは、道徳上の罪と、形而上的な罪である。そのレベルの罪を、公開性に基づいて、親密な愛の実存的交わりの中で、相互了解し、引き受けていくことができなかったことに何よりの問題があるのである。結局、戦争責任の問題においても、実存的交わりの可否が第一の課題となるのである。

1.2.2 特徴



 罪の清めに関し、ヤスパースが述べている事柄は以下のa~cの三つにまとめられると思われる。

a 道徳的、形而上学的罪は生涯、償われないこと。

b 「たえず自己自身になろうという内的な過程」である(実存の変容)

c 「自我」が砕かれる、自由になる

 aに関しては「道徳上の罪と形而上的罪とは、…罪滅ぼしということがない。…これを担う者は、生涯終わることのない過程に足を踏み入れるのである」(Sf.84/181)。と言われている。

 bに関しては「清めは外部的な行為によってまず行われるのでもなければ、外部的な処理によって行われるのでもなく、魔術によって行われるのでもない。むしろ決して鳧のつくことのない、絶えず自己自身になろうという内面的な過程なのである。清めはわれわれの自由に依存する任務である。人間は誰でも清浄となるか、汚濁に走るかの岐路に立っている。」(Sf.86/185)と言われている。

 cに関して。罪の深い内面化から、砕かれた魂へという過程をとることについて、以下のように述べられる。

 「罪の意識をもたなければ、あらゆる攻撃に対するわれわれの反応は、依然として反撃の形をとるのである。これに反して内面的な揺さぶり[本質的な変容]を経験したあとでは、外部的な攻撃は今はただわれわれの上つらを掠めるだけである。…

 罪の意識が真におのれの意識となっていれば、間違った不公正な非難には平然として堪えられる。それは尊大な気持ちと横柄な気持ちとが消えてしまったからである。」(Sf.87/187)

 罪の深い自覚のなかで、純化された自我、砕かれた<自我>には、ただただ他者、人類に対して果たすべき、深く澄みきった責任感だけがあるのであり、雑多な情念に振り回されることがない。ゆえに「清めを経て初めて、いかなる事態に対する心構えをもなし得る自由を得ることができる」(Sf.87/188)と言われる。



1.3 民族の罪について



 以上で、大筋は論じ終えたが、いくつか細かい点について見ておく。

 罪についてもう一度整理しておこう。刑法上の罪と政治上の罪は外的、道徳上の罪と形而上的な罪は内的。また、刑法上の罪と道徳上の罪は関わった当事者個人において問われる罪であり、政治上の罪と形而上的な罪とは直接的に関わらなくても、何らかの形で関わっているゆえに、集団(国家、人類)に属する限り問われる性質の罪といえる。

 ここまで形而上的な罪を中心に見てきたが、この本の議論の焦点は、政治上の罪である。ドイツ人全体というものの責任はあるのか、である。



1.3.1 民族の罪と政治上の罪の区別



 民族としての罪は、政治上の罪の箇所で少し触れたように、政治上の罪と混同してはならない。同じ民族であるからという理由で、国家の債務にたいする負い目は生じないのであり、あくまで、国家に属して保護されてある、という、政治的・社会的存在という人間の不可避的なあり方ゆえに生じる、きわめて冷静に、外的に問われている事柄なのである。

 同じ民族ゆえに、言語を同じくするとか、文化的伝統背景を同じくするとか、同じ血縁にあるとか、そういったことは、当然問題外なのである。人間は倫理・道徳に関しては個人的存在として扱われるべきである。

 だから、被害者は「国家」を責めても(そしてそれは法的に賠償されて済まされたことになる)「民族」を責めることはできない。

 たしかに、被害者はやり場のない恨みを何処へ向けたらいいのか、という現実問題はある。ドイツ民族全体、日本民族全体に向けられる、被害者の恨み。それは間違った考え方だと、加害者側が主張することはできない。しかしこの点について、ヤスパースは著書を通じ理性的に整理することで、様々な恨みを持った被害者の、一人一人の幅広い理性に間接的に訴えているわけである。



1.3.2 責めを負う共同体。民族から人類へ



 ヤスパースの場合、この著作においては、罪を負う自己と、自己がそれに対して負い目あるところの他者との関係にはそれほど焦点が置かれていない。この点でレヴィナスとは対照的である。むしろ共に責めを負う、任務を負う、人間同士の共同体に焦点が置かれている。

 人間・人類としての責任も、民族としての責任の延長として考えられている。共に精神的交流を通じて通じ合い、人類に対する責任、任務を負っていこうとする者たちの共同体としての他者との関係に焦点が置かれている。彼にとって親密な民族共同体とは、人類共同体の縮図、あるいは練習場としての「学校」なのである。

 人類共同体という、直接的には近寄りがたいものは、民族的自覚を介して近づきうるものとなる。

 先に論じたように、形而上的罪は人類全体に対して感じる、私自身の罪意識、負い目意識、その実現のための責任意識である。この場合、人類全体の共同体が「神の御前でのすべての人間の集団的結合」(Sf.54/117)にあたる。この形而上的負い目は、個人的な深い実存的交わりの体験に根ざすものであった。

 だがまた、ヤスパースによると、形而上的負い目の自覚は、民族としての集団の罪の自覚によって促進され、また具体化されるという面もあるのである。

 「集団の罪を感ずるがゆえに、われわれは根源に立脚して人間的なあり方を革新し建て直そうという使命を全的に感じている。この使命は地上のすべての人間のもつ使命ではあるが、或る民族がみずから犯した罪のために虚無の前に立たされたときなどは、この使命が一層緊急、切実の度を加え、一切の存在のあり方を決定するかに見えるのである。」(Sf.58/126)

 そしてまた、この民族としての罪の自覚は、個人の罪の自覚によって初めて行われる。

 「歴史的な反省を通じての民族としての自己照破と、個人の人格的な自己照破とは、別物のように考えられる。けれども前者は後者を経て初めて行われるものである。個人が互いに精神的交流を通じて行うところのものは、それが真実であれば、多数者の全般的な意識となることができ、そうなればそれが民族の自己意識と見なされるようになる。(Sf.74/157)

 このように、個人の罪の自覚から、民族としての罪の自覚に至り、その民族としての罪の十分な自覚が、形而上的な罪の自覚に繋がるという流れがある。しかし何度も繰り返しヤスパースが指摘するように、他人が民族としての罪を論じることはできないのであり、あくまで個々人の自覚のレベルで、民族の一員としての罪の自覚が問題となっているのである。しかしまた、実存的交わりという親密な関係を前提として、民族としての罪意識が伝えられることはあるのだろう。



 民族としての罪や道徳上の罪を、ドイツ人がドイツ人に、愛情無くただ外的に非難をすることに対しては、ヤスパースは警告した。しかし(当然だが)被害者側が、ドイツ民族に(法的制裁以上の)道徳的罪を責め立てることに対しては直接は警告したりはしなかった。しかし、見つめるべき目標を明確に示し、また歴史を越えて広い視野で、両者の立場に立ちながら反省をするということを、著書を通して間接的な仕方で促した。またそれだけのことをする資格を、自己の徹底的に開かれた謙虚な姿勢を貫くことで、自己に与えることができた。そのような、徹底的に開かれた謙虚さで、一つ一つ整理して提示する、理性的態度が如何に有効かを示した。そのようにして、最終的には、民族としての罪を越え、ドイツ側、戦勝国側、双方に反省を促し、自己に立ち返らせることを目指したのである。



3.3 混乱状態をチャンスとして



 この著作自体、敗戦直後の講義である。そもそも普遍的な罪を扱うところに主眼があるのではなく、敗戦国家ドイツの罪についての本なのである。敗戦を共に通過した同じ民族としてのドイツの罪が問題なのである。とりわけ一人一人が、罪を突きつけられた機会だったのである。ナチに直接的にか間接的にか加担するという形で、あるいは同じ民族であるという形で、あるいはそんなことの後でもなお生きているという形で、さまざまな形ではあるが、それぞれが罪を突きつけられた機会であることには変わりがない。この類い希な機会を、個々の実存的変容へとつなげていかなければならない、というのがヤスパースのねらいだった。

 そしてまた、ドイツ人同士が、積極的にナチに賛同した加害者であり、また同時に騙された被害者でもあり、一方ではユダヤ人やユダヤ人を友とするドイツ人は彼らに迫害され殺された被害者でもあり、そういう様々な立場が混在する状況だった。それぞれが互いにあまりにも異質だった。むしろだからこそ、対話の必要性、一切を相互に腹蔵無く公開する精神、他者の前に自己を引き渡しさらけ出す謙虚さ、(その謙虚さも、一切の理念も、最愛の人も失った、放心状態、一種のニヒリズム状態だからこそ、傲慢な心を持ち得ない状況だからこそ、可能でありえた) 何の理念も固定的な中心もなく、ただただ公開性において語り合うチャンスであると考えたのだろう。



第2章 レヴィナスの思想における他者との関係



2.1 ヤスパース『戦争の罪を問う』と、レヴィナスとの共通点



 以下、レヴィナスに沿って見ていく。最初に述べたように、レヴィナスの思想の特徴を、他者の絶対的優位性に置く。この特徴を軸として、以下に、幾つかの点を挙げる。これらの点に絞って、レヴィナスの思想を見ていくことになる。

1 他者の絶対的優位性、同時に、まったき弱者としての特徴。

2 責任の性質:この責任は決して償われないこと、生まれ出た限りの負い目であること。またそれは応答責任であること。それによる自我の定立。

3 我意がないことで自我が確立され、そこに救いがあること。



2.1.1 他者の絶対的優位性、同時に、まったき弱者としての特徴



 レヴィナスにおいて他者と自己との関係は、不平等であり他者が絶対優位にある。「<自我>と<他人>との連関は互いに超越的な二つの項の不等性のうちで始まるのである」(TI.)と言われる。これは倫理における不平等性である。例えば、以下のような状況があるとする。私と他者、どちらか一方が死ねば、もう一方は生き延びることができる。両方生き延びることはできない。どちらが死ぬかの選択は、私に委ねられているとする。この場合、どちらが生き残るに相応しい有能な人間かなどということは考慮の対象とはならず、他者を生かし、自分は死ぬという選択をするだろう。倫理における不平等性とは、例えばそのような意味である。しかしレヴィナスにおける不平等性とは、それだけでは言い尽くせない。

 レヴィナスにおける他者との関係は、何より他者の他性、あるいは外部性を第一とする。例えば次のように言われる。

「われわれの世界のうちにいかなる準拠物も見出すことのない外部存在のこのような現前ーーわれわれはそれを顔と呼んだ。…(中略)…それでもなお視覚は外部性を測ろうとするのだが、このような視覚と合致することのない外部性の横溢が、ほかでもない高さの次元を、外部性の神聖さを構成するのだ。神聖さは隔たりを保持している。」(TI.272-3/454-5)

 他者は私にとって、高さの次元、であり、神聖さ、である。

 また他者は、私に対して、一方的に命じるのであり、私はそれに応える、ということができるだけなのである。他者はこのように私にとって強者なのだが、それだけなら私を暴力的に圧殺するだろう。他者は同時に、全き弱者でもある。

 「<他者>はその超越によって私を支配する者であると同時に異邦人、寡婦、孤児でもあり、私はこのような<他者>に対して責任を負うているのだ。」(TI.190/328)

 そして、全き弱さの中でこそ現れる強さであるからこそ、純粋な強さ、高さを形成するといえる。



2.1.2 責任の性質:この責任は決して償われないこと、生まれ出た限りの負い目であること。またそれは応答責任であること。それによる自我の定立。



 このような全き弱さの中で現れる、絶対的な高さとしての他者は、私に一方的に呼びかけてくる。私はそれに対し、応答するという責任を果たす選択しか残されていない。これは生まれ出た限り、避けて通れない責任、負い目といえる。比喩的に言えば、私は既に生まれる前に、「私は応答しますよ」と、自分から約束してしまっているのである。

 そして応答することによって初めて、私自身の自我が定立されもする。「…他者の本質的悲惨に応えること、他者を養うための資力を自分のうちに見いだすことによって、私は自我として定立されるからである。」(TI.190/328)と言われる。

 この応答はおそらく他者に届くだろう。その地点は、審判の場であり、真理が形成される場である。「真理はこの催告に対する応答のうちで形成される」(TI.222/379)と言われる。

 しかし、他者の呼びかけは一度で終わるのではなく、常に繰り返される。ゆえに私の責任も終わりがない。しかしこの無限責任の中でこそ、ますます私は私自身たりうるのである。そのことは以下の引用では「個別性の高揚」と言われている。

 「裁きにおける個別性の高揚は、裁きによって引き起こされる無限責任そのもののうちで生起する。」(TI.222/379)

 これら罪に関しての特徴は、先に見た『戦争の罪を問う』の罪の清めの過程と類似する。



2.1.3 我意がないことで自我が確立され、そこに救いがあること。(我意がなく、ただ他のために在るという喜び)



 2.1.2では、無限責任を果たす中で、自我が定立されることを見てきた。ここでは、その自我が、我意のないところで定立される自我であり、またそれが救いであることを確認する。以下、レヴィナスの<欲求(besoin)>と<欲望(desir)>の概念から考えてみる。

 自我は存在する限り、<欲求>する。つまり自分のために、他なるものを求める。そして獲得する。そこには喜びがある。しかし獲得すると同時にまた欠乏感を抱き、さらに欲求する。この原理は終わることがなく、欲求は満たされることがない。しかし欲求の原理自体を突破することにより、救いを見いだす道がある。それが<欲望>の原理であり、これは他なるものへ赴こうとする<欲望>である。これは欠乏ゆえに他なるものを求めるのではなく、むしろ満たされているがゆえに、与えたいがため、応答したいがために他者へ赴くのであり、これも終わることがない。

 <欲望>の原理により、<欲求>の原理に生きる我意を越えることができる。そこにおいて、あくせくした追い求め続ける原理から、救われる。

 決して償われない他者に対する無限の責任を、負おうとしていくところに、自己の救いがある。自己中心的な、全てのベクトルを自分の方へ向けるという生き方の逃れられなさから、他者は私の「外」から呼びかけ、私を救ってくれる。<他者>は、自我の膨張を防ぎ、出鼻を挫き、絶えず私を真の自我へと返してくれるのである。



2.1.4 まとめ



 ヤスパースの『戦争の罪を問う』とレヴィナスの『全体性と無限』における他者との関係について見てきた。両方に共通する点として、以下のものが指摘できる。

1、他者の絶対的優位性(常に自己は負い目がある立場)

2、他者への無限責任

3、無限責任を果たそうとすることを通じて、自己中心的な自我が砕かれ、真に自我が定立される。そこに救いがある。



2.2 レヴィナスにおける二種類の他者



2.2.1 分離における女性



 ヤスパースの、実存的交わりの関係、他者との親密な関係は、『戦争の罪を問う』では、形而上的な罪意識の前提となるものであった。そのような関係は、レヴィナスにおいても、女性の他者との関係として触れられていると思われる。

 レヴィナスにおいても、「審問する他者」を迎接する前提として、「女性(femme)」を前提条件としており、この点は共通するといえる。またこのことから、ヤスパースの実存的交わりにおける他者とは、レヴィナスの図式における、「女性」の要素が強いということがいえるだろう。

 「女性」について見ていくにあたり、レヴィナスの思想における分離から対面へという流れを確認しておきたい。



 人間は先ず、元基(element)の中で生きている。元基、つまり、食糧、水、空気、などの生存条件によって生きている。あるだけの養分を好きなだけ摂取しつづけている。しかしそれだけでは他の動物と同じである。人間は、<家(maison)>に住むことによって、元基から距離を置く。それによって、直接的な摂取から、労働による糧の蓄積が行なわれる。「人間活動性の条件であること、条件であるという意味において人間の活動性の端緒であること、それが家の特権的な役割なのだ。…どんな考察もが住居(demeure)を起点としてなされるという事態に無効が宣せられるわけではない。」(TI.125-6/229)

 意識の面では、元基の中で生きている状態から、一歩身を引くことにより、表象(representation)という活動が可能となる。自己意識が可能となる。ヤスパースでは、現存在から意識一般へという上昇過程として描かれるところである。

 このような分離を成就する最終的な条件が「女性」である。

 「歓待しつつ迎接することの最たるものが<女性>という<他人>の現前にもとづいて成就され、この迎接によって内密性の領野が描き出される。女性は集約し収容することの条件、<家>の内面性および住むことの条件なのである。」(TI.128/233)

 「顔の迎接はまずもって平和なものである。なぜなら、顔の迎接は消すことのできない<無限>の<欲望>に応えるものであり、戦争でさえ、顔の迎接の一可能性であって、その条件では決してないからである。このような顔の迎接は、根源的には女性の顔の優しさのなかで生起し、女性の顔のおかげで、住み、その住居のうちで分離を成就する。

 このように、無限の観念--顔のうちで顕現する無限の観念--は分離された存在に対してただ単に要求をつきつけるだけではない。分離には顔の光が必要である。だが、家の内密性を確立するものとしての無限の観念は、何らかの敵対的な力、弁証法的な呼びかけの力によってではなく、その光輝の女性的優美さによって分離を引き起こす。」(TI.125/226-7)

 「顔の迎接はまずもって平和なものである」と言われている。以上の引用によれば、平和な迎接として、分離を成就するものとしての顔こそが顔の根源的な在り方となる。

 レヴィナスの体系においては、審問する他者の描写が中心なので、このような女性という他者のあり方は二次的かというとそうではなく、むしろ他者の可能性の原型なのである。例えば以下のように言われている。

 「女性という他性は言語とは別の次元に位置しているのであって、不完全かつ未成熟な初歩的言語を示しているのでは決してない。まったく逆に、女性的他性の現前の慎み深さは他者との超越的関係のありとあらゆる可能性を含んでいるのだ。」(TI.129/234)

 原型としての女性的他性は、内密性を形成する他者でもありうるし、審問する他者、対話を交わす他者でもありうるのである。ここにはヤスパースの愛しながらの闘いとの共通点が見られる。

 しかしともあれ、女性の役割は、まずもって不可欠な一方の役割、迎接する存在、分離を可能とする他者として描かれる。この場合、女性との関係は言語を欠いたものとなり得る可能性を持っている。

 「が、住むこともいまだ言語の超越ではない。内密性のうちで迎接する<他者>は高さの次元で顕現する顔としての貴殿ではない。そうではなく、この<他者>は親密なるきみにほかならない。親密さとは教えなき言語、黙した言語、言葉なしの諒解、秘密裡の表出である。ブーバーは私-きみのうちに間人間的関係の範疇を認めているが、私-きみは対話者との関係ではなく、女性的他性(L'alterite feminine)との関係である。」(TI.128-9/233)

 ここで言われる女性的他性は、根源的な女性ではなく、一つの在り方としての女性である。

 さてともあれ、このような分離が女性の他者によって可能となった後に、他者の迎接が可能となる。この過程はヤスパースの過程と類似している。



2.2.2 審問する他者の迎接



 「分離は自我中心性、享受、感受性、ひいては内面性の次元全体をその要素としており、それゆえ、分離された有限存在を起点として拓かれる<他者>との関係ないし<無限>の観念はこれらの要素を欠くことができない。」(TI.122/222) などと言われるように、この女性の迎接において完成される分離は不可欠なのである。

 また、明晰な意識活動ができるためにも、このような分離段階が必要なのだろう。またこの分離過程は、意識活動と切り離せない「時間」や「言語」を可能にするための不可欠な段階である。

 さて、このようにして形成された家において、はじめて、審判者としての他者を家に迎接することができる。そして己の資材を、他者に与えることができるようになる。この他者は私を審問する。ここにおいて社会性の次元が展開される。私は立派な大人として、責任を問われる。本当の意味ではこの責任はどこまでも果たし得ない。しかし、私はありのままを正直にさらけ出し、弁明しなければならない。ここにおいて言語が問題となり、正義、倫理が問題となる。言語ゆえ真理が問題となる[「象徴ーそれも沈黙の薄暗のなかで象徴する象徴ーは多様で、かつ互いに競い合う諸可能性を有しているのだが、ひとり発語のみがこのような複数の可能性から一つの可能性を選び出し、そうすることで真理を誕生させうる。」(TI.156/277)]。



 以上のような過程をみると、まったく違う他者が二種類あるようである。しかし先に述べたように、「女性」は本来、両方の役目をしうる可能性を持っており、より包括的な概念なのである。だから審問する他者の方は、すでに可能性を選んでしまった様態なのである。

 ヤスパースでは親密な実存的交わりの関係は、形而上的な罪意識の前提条件であった。レヴィナスにおいても、やはりすべての前提条件として、親密な相互関係として、「女性」が考えられているので、この点で共通するといえる。しかしレヴィナスでは、この「女性」であれ、私と同等の関係とははっきり言えないだろう。



第3章 ヤスパースの実存的交わり



3.1 実存的交わりの過程



 ヤスパースの実存的交わりにおける他者との関係を見ていくにあたり、1.自己が他者へと向かう動機について、2.交わりの過程、3.交わりの実現、の観点で、それぞれレヴィナスの場合と比較しつつ見ていきたい。



3.1.1 自己が他者へ向かう動機について



 自己が他者へ向かう動機、実存的交わりへと駆り立てるものについて、ヤスパースは先ずそれを「不満」として説明する。例えば、他者との交わりが、単に、情報・意志疎通だけの交わりとか、社会的な役割を通じての交わりだけである時に感じる「不満」。あるいは「孤独」であることの不満。これは以下のように言われる。

 「この不満こそは哲学的反省の出発点であり、その反省は、私が私自身としてはそのつど代理されえない他者を通してのみ存在するという思想を了解しようと欲する。」(PhII.55/109)

 この「不満」は、他者を否定して、全てを自己へもたらそうとするような欠乏感ではなく、他者と共に在りたい、というような欲望といえるだろう。

 また、後の方の箇所では、交わりの動機は、より根本的には「不満」というよりむしろ「愛」だと言っていることも、このことと合致する。他者へ赴こうとする欲望という点では、レヴィナスの場合と共通するといえる。

 動機に関し、レヴィナスとの相違点として、他者に対する負い目、については、あまり語られていないことには注意すべきである。これについては後に第四章で考察する。



3.1.2 交わりの過程



3.1.2.1 関係の相互性の問題



 レヴィナスの場合においては、ただ一方的に、他者からの絶対的な命令としての呼びかけがあり、私はそれにただ応答することができるだけであった。

 しかしヤスパースの場合、他者との関係は相互的で、対等である。他者が躊躇するなら、他者を励ましたり、問いつめたりもする。「この愛は可能的な実存から他の可能的実存を問題にし、苦難を負わせ、要求し、把握する。」PhII.65/119) 他者を自己と対等に扱う。

 レヴィナスの場合、自己の行為がそままま環境の変化、他者の変化につながるようなものがない。「…他者から新しさが到来するゆえに、新しさのうちには超越と意味が宿っているのだ」(『存在の彼方へ』406頁)というように、他者から意味が到来する。

 ヤスパースの場合、相互の交わりは、生み出し続ける対話である。

 そして他者は教えて貰う<師>ではなく、交わりのなかで「愛の闘争」を共に戦ういわば<戦友>なのである。「実存のために共にきわめて決定的に格闘する友人が成立することになる。」(PhII.65/120)



3.1.2.2 一義性、多義性。相互公開について



 また、レヴィナスの場合、他者との関係が絶対的な命令、「本質的悲惨」として顕現する一義的な<顔>の聞き違えのない呼びかけへの応答、というのが重視された。ヤスパースにおいては、他者を「本質的悲惨」として規定しない。彼にとって一義的なもの、つまり根底にある第一原理は、交わりへと向かう衝動、動機である「愛」に当たるのかもしれない。しかしヤスパースの場合、その愛は、他者への責任感を強調する方向へは向かわず、交わりにおいて相互の徹底的な公開をめざすことを、支えるものとなっている。交わりの過程の方法論は、徹底的な相互公開なのである。多義的なものを相互公開していくことによって、最終的に相互の存在を確認するという出会いがある。

 例えば、

「徹底的な公明さ、あらゆる権力と優越の排除、他者の自己存在と自身の自己存在、これをめぐる争いである。この争いにおいて両者は敢えて腹蔵なく自己を示し問いの対象とする。」(PhII.65/120)といわれる。

 ところで、レヴィナスにおいても、「それは、自己を隣人へ引き渡すことであり、自己を透明にしてしまうことである。換言すれば、他者への責任を逃れるために私が逃げ込むことのできるような不透明な暗がりを、秘密の隠れ家を、自分自身のうちに保持しない、ということなのである」(『神の痕跡』岩田靖夫著、161頁)というような、ヤスパースの「公開性」に通じるものがある。これは、他者へ全面的に自己を曝すことであり、他者へと自己を委ねてしまうこと、いわば人質となることである。

 しかし、

 「自己であること-人質ないし捕囚の条件-とは、他人よりも次数が一つ上の責任をつねに担うこと、他人の責任に対する責任をつねに担うことなのだ。」(『存在の彼方へ』272頁)

 とレヴィナスはいう。人質となることの条件として、「他人よりも次数が一つ上の責任を担うこと」がある。ヤスパースも、無条件にただ自己を他者へ公開することは言っておらず、前提となるものがあり、それは愛や「不満」であった。しかしそれらは、自己も他者も共に有するべきものである。レヴィナスの場合の責任は、他者より一次上の責任である。他者と同じでなく、一次多く責任を負うということは、他者に対して一つの秘密を持つことになるだろう。



3.1.2.3 愛しながらの闘い(Liebender Kampf)とは



 レヴィナスは、

 「<他人>は<自同者>をその責任へといざなうことで<自同者>の自由を創設し、この自由に正当な根拠を与える。顔としての他なるものとの関係が<自同者>の他者アレルギーを癒すのだ。」(TI.171/297)

 というが、ヤスパースにしてみれば、そのような顔は、直ぐには顕にならないのであって、愛しながらの闘いという過程が不可欠なのである。

 愛と闘いが同時に展開されるとはどういうことか。先ず愛について検討しておこう。

 普通、愛とは一体化の原理であり、無条件な愛による一体化は、方向を間違えば、排他的な民族主義などへ向かう危険性がある。また愛は、赦し・自己放棄の原理として、レヴィナスでは、言語による審問と弁明の出会いによらず自己放棄する場合を指すこともある。

 「弁明を沈黙に帰す理性の暴力に対して反旗を翻した主観性が、沈黙することを受け容れるのみならず、暴力によることなくみずから進んで自己を放棄し、弁明を中断しうる場合である。これは自殺でも諦念でもない、これが愛なのだ。これに対して、僣主制への服従、普遍的法への屈服は、たとえこの法が理性的なものであったとしても、私の弁明を中断し、私の存在の真理を損なってしまう。」(TI.231/390)

 このように、愛には、言語を越えて交わってしまうという要素がある。

 それでは、「愛しながらの闘い」の「闘い」とは何か。

 普通、闘いといえば、両者が相手を敵として闘うのだが、そうではなく、

 「それは二つの実存相互の闘いではなく、自己自身と他者とに対する共通の闘いである」(PhII.66/120)

 と言われるように、自己は自己自身と他者自身に対して闘い、他者もまたそのように闘うのである。どういう闘いかと言えば、

 「徹底的な公明さ、あらゆる権力と優越の排除、他者の自己存在と自身の自己存在、これをめぐる闘いである。」(PhII.66/120)

 なのである。徹底的な公開性を相互に目指すのであり、それを阻止する自尊心や自己保存欲を越えて、愛の信頼関係の中で、それをなし遂げていくのである。 何に対して闘うかといえば、相互の自己自身の自己保存欲、つまり自己中心主義の現存在{レヴィナスなら<欲求>]としてのあり方という弱さに対してであり、レヴィナスなら<欲求>から<欲望>への転換が他者の顔に面して、比較的劇的に成されているように見えるのに対し、ヤスパースの場合、もがきながら苦しむ過程として、この転換が描かれている。

 ヤスパースにおいては、徹底的な公開性が、実存的交わりの方法論である。そうして相互に公開されたものに関しては、何でも無条件に受け容れ許すというわけではない。何でも腹の内を全て披露し会えば、人間は通じ合え愛し合えるものだ、という単純なものではない。例えば、相手に対する悪意、嫉妬心、恨みなどを明かしたときには、逆に関係は悪化する場合が多い。そのような相互に公開された情念自体が、お互いの間で審問され、問われ、公開されなければならない、ということがあるだろう。それを成すには、相当な、実存的交わりへの動機、愛の動機、強烈で純粋な深い交わりへの渇望が前提となるだろう。公開性をめぐる闘いは、愛によってはじめて支えられ、仮借なく行われることができる。ヤスパースの実存的交わりを支えているのは、彼の実存的体験からくるところの、交わりが成されないことに対する強烈な「不満」、交わりへの強烈な渇望なのである。これはレヴィナスでは<欲望>として描かれたものである。



 ヤスパースは「愛は明察する(Die Liebe ist hellsichtig)」(PhII.277)という。彼においては、愛は決して盲目ではない。

 そこには、徹底した公開性において人間相互は理解し合え、信頼し合えるはずだという思想がある(公開性と性善説への信頼)。また人間が相互に問い問われしつつ、実存へと高まってゆくことができるはずだという思想がある(相互審問能力への信頼)。

 「愛しながらの闘い」という実存的交わりは、問いと応答という相互審問(愛のやり取りであり、また、責任の問いでもある。いずれにせよ公開性がある)が展開される背後に、愛という動機がある。

 レヴィナスとの共通点は、交わりが審問の場であるという点、また他者に無条件に自己を委ね、他者の審問に委ねるという点である。差異点は、審問が一方的か相互的かという点であるといえる。しかし、このレヴィナスの一方的な審問は、やはり、ヤスパースと比べ、非常に深いといえる。根本的に愛による出会いであるヤスパースと、根本的に責めを介しての出会いであるレヴィナスの間には、やはり深い差異がある。



3.1.3 交わりの実現



3.1.3.1 垂直の出会いと水平の出会い



 他者との出会いはヤスパースの場合、「この争いは全く同等の水準の上でのみなされる(Dieses Kampfen kann nur auf vollig gleichen Niveau stattfinden)」(PhII.66/120)「交わりにおいて私は他者と共に私に開示される」(PhII.64/118)と言われるように、やはり全く対等な関係としてなされる。レヴィナスの場合、出会いは「審判の場」であり、私は被告であり、他者との関係には格差がある。しかしその出会いによって初めて「平等」が生起するとも言っている。ヤスパースの場合、出会いの必要条件として平等性が考えられているのに対し、レヴィナスの場合は出会いによって初めて平等性が創設される、という違いがある。

 レヴィナスの場合、他者との出会いは垂直になされ、ヤスパースでは水平になされると言える。さらにそれぞれ、垂直だからこそ、真に出会えるのであり、また水平だからこそ、出会えるのだとも言える。



3.1.3.2 愛は、関係が達成されて初めて、明らかになる。



 レヴィナスの場合は、最初に顔との対面という衝撃があった。最初に真実を知っているのである。ヤスパースの場合は、関係が達成されて初めて、全容が明らかになる。愛とは何かを知る。またそれ以降も、この交わりは続くが、その場合は、最初から全容を知って、交わりが開始されることになる。

 「愛はまだ交わりではなく、交わりを通して解明されるところの交わりの源泉である。世界内においては概念化されない相互依存関係の一体化(Inneinsschlagen des Zueinanderghhorens)が或る無制約者(Unbedingtes)を感得させる。この無制約者がこれ以後は交わりの前提であり、交わりにおいて仮借のない誠実さの愛しながらの闘いをはじめて可能ならしめるものである。」(PhII.71/126)



3.2 他者との同等性



 以上、ヤスパースの交わりについて、レヴィナスと比較しながら見てきた。

 ここではヤスパースの実存的交わりの特徴である、他者との同等性が何に由来するのかについて見ておきたい。

 先ず考えられるのは、このような同等性は第三者の立場から客観的に眺めてはじめて、得られるのではないか、という意見である。

 そのような客観的・対象的認識に、根源的な同等性の起源があるとはレヴィナスも考えていない。同等性の立場に立つマルセルやブーバーについて

「ガブリエル・マルセルの『形而上学日記』およびマルチン・ブーバーの『私ときみ』は互いに影響を与えることなくある一個の思想動向を確立したのだったが、この思想動向のおかげで、対象の認識に還元不能なものとして<他者>との関係を捉える考えも空飛なものではなくなった」(TI.40/90)

 と言っているからである。そして、

「[ブーバーについて]きみと呼び合うことは<他人>を相互的な関係に定位することではあるまいか。そしてまた、この相互性は果たして根源的なものなのだろうか。…<無限>の観念を出発点とすることによって、本考察はブーバーとは異なる展望を拓こうとしているのだ。」(TI.40/91)

 と言って、他人との相互的・同等的関係とは別の関係、相互的でない関係を展開していく。



 ヤスパースも、実存を論じる場合、実存を離れて客観的に論じることができないことを言っている。[「…私は、実存から外へ出ることはできない。すなわち実存を傍観することはできないし、それを他の実存と比較することもできないし、それらの多くのものを客観的に並置することもできない」(PhII.420)] だからヤスパースの、他者との同等性は、客観的な第三者の視点から見た同等性を言っているのではなく、実存の同等性を言っているのであり、またレヴィナスも、実存のレベルの差異性を語っているのである。



 ヤスパースは同等性を主張することで、同時に何らかの不平等性に対して、異議を唱えているわけだが、それはどんな不平等性のことを指しているのだろうか。

 一つは、社会的役割における不平等性である。主人と僕、先生と生徒、などの関係においては、社会的関係がうまく回転するように、それぞれにふさわしい役割を果たしていくことが要求される。それはそれで有用なものだが、役割ゆえの不平等があるかぎり、真の交わりは成立しえない。

 「しかし両方の側に精神的な力が活動しているところには、生々とした力関係がある。従属者に対する好意と主人に対する従順のうちには交わりがある。配慮における忠実と従属におけ忠実、従属者に対する責任と主人に対する畏敬が相互的に結び合う。かかる状況はかかるものとして、両方が距離をとってなされる、実質に満ちた交わりを可能とする。これに対して実存的交わりは実在する依存関係の形態のうちにおいても同等の水準を実現する。…しかし相互に、水準の等しくない交わりの形態のうちに自己存在の充実を見出そうとする試みは危険である。」(PhII.92/148-9)

 平等でない交わりは、ヤスパースの図式では一つ前の段階、精神の交わりに属するのである。

 もう一つには、どちらかが人格的に優れているという場合がある。これについてヤスパースの述べている箇所を少し長いが引用しておく。

 「現存在的現実の依存性のうちで交わりの実現を貫徹するいっさいの実存的な水準同等性と比較して、永遠の位階性の理念(Idee einer ewigen Hierarchie)を把握することは、それとは根本的に別な或るものである。私はここで、私のけっして知らないところの実存間の序列について、あらゆる交わりを越え出て考えている。

 この序列は、比較されうる諸性質の序列やさらには経験的現存在の全体すなわち生命力の重圧や作業や効果や精神性や教養や公共の名声や社会的地位などの序列とは本質において相違するであろう。…それに対して実存間の序列はけっして実現されないし、また普遍的な場合にも特殊的な場合にもけっして知られえないであろう。この序列は他者のより重要な意味のある深さと決断性を秘かに常に可動的に感ずる感情として、また私の側におけるそれらのものの感情として現象するであろう。」(PhII.94/150)

 とにかくこのような実存間の位階については、「他者のより重要な意味のある深さと決断性を秘かに常に可動的に感ずる感情」というほどの、かすかな感情としてしか現れ得ない。決して客観的には知られないものである。「私が有る存在者を全体として評価し総決算をし精算するかぎり、そのものは私にとってもはや実存ではなく、心理学的客体かあるいは精神的客体にすぎない」(PhII.95/151)のである。

 ヤスパースはこのように、確かに破棄されない実存の位階のようなものがあることは認めている。しかし、実存的交わりは、自己の存在一切をそこに賭ける行為によって成される。だから単なる心理の公開、共有などというレベルではない。尊厳も何もなく自己の全てを賭けきる「ような危険の瞬間がなければ、どんな心の接近も成立しない。」(PhII.78/133)「けだし、みずからを浪費せず、恥ずかしさのあまりに後にひかねばならぬことを一度も経験したいことがない者には、実存的交わりはほとんど成就しないからである。」(PhII.78/133)

 これは一切の根拠なく、無の中に飛び込むような行為なのである。何らかの共有基盤があるかぎり、それは精神の交わりであって、実存的交わりではない。あるかないか分からないような、愛の動機、「不満」の動機をもとにして果たされる行為である。それまでの精神の交わりによって保たれていた充実した内容が失われ、ニヒリズムが支配することを恐れて、あえて自己放棄をしないなら、実存的交わりはあり得ない。「実存するために実存を放棄する(die Existenz hingeben, um zu existieren)」(VdW.591/3-260)という真理が妥当する。

 さて、そのような次元で問題となる同等性とは何なのか。

 その前に、ヤスパースの実存的交わりの到達点は如何なるものなのかを確認しておこう。先にも引用したように、

 「世界内においては概念化されない相互依存関係の一体化が或る無制約者を感得させる。この無制約者がこれ以後は交わりの前提であり…」(PhII.71/126)

 という状態である。自己の存在つまり実存は、他者に依存し、他者の実存は自己に依存しているという相互依存関係の一体化が究極的な境位といえる。「あなたが存在するゆえに、私が存在し、私が存在するゆえに、あなたが存在する」という状態である。そしてこの関係の一体化が、無制約者(Un-bedingtes)、レヴィナスでいう無限(in-fini)を感じさせるのである。レヴィナスの場合、この無限が他者の方に一方的に課せられている点が、ヤスパースと違うといえる。

 ところでヤスパースも実存の差異性・断絶性については強調している。しかしレヴィナスの差異性が、絶対的優位である他者と自己との断絶性、倫理的な縦方向の断絶を主に強調しているのに対し、ヤスパースの差異性は、それぞれの実存の由来が根本的に異なるゆえの差異性・断絶性である。(レヴィナスにはこの意味もあるが)

 レヴィナスのような「師(maitre)」という発想も、ヤスパースでは疎遠といえる。他者は先ず対等な他者として扱われなければならない。

 レヴィナスは相互性をどのように考えているのだろうか。

 「たとえ他人が、それ自体では独断的なものである私の自由を私に授けうるとしても、それは、私自身、最後には自分を<他人>の<他人>として感じうるからである。しかし、この感覚は実に複雑な諸構造を媒介としてのみ得られる。」(TI.56/117)

 究極的には、他人の他人としての自己を見ることにより、最終的なものとして、相互性が確認されると考えている。



3.3 まとめ



 ヤスパースの交わりにおいて達成される境地は、一見、二者が互いに心を開いて心が通じ合って、一つになる喜び、のように見える。しかし、ヤスパースが述べている相互依存関係の一体化は、相互性が破棄されない状態である。ヤスパースは、交わりの中で初めて、他者の存在と自己の存在を確認することを述べており、そういった存在の確認こそが彼の思想の目差しているところなのである。存在が、そういうものであること、を知ること、つまり「存在意識の変革」が主著『哲学』の目差したことであると序文でも述べている。また彼が実存と超越者が融合するような神秘主義を受け付けないことからも、このことは傍証されるだろう。交わりにおいて達成されることは、二者の性質が共有されたりすることではなく、他者が他者として存在を確認し合えるところにあると考えられる。



第4章 様々な局面からの比較



4.1 神について



4.1.1 神秘主義の克服



4.1.1.1 レヴィナスの神秘主義克服の道



 ヤスパースでもレヴィナスでも、神は倫理的な文脈で問題となり、言語や他者と深く関わる。そのため、融即的な神秘主義などを避けなければならない。このことに関して両者の扱い方を見ておく。

 食糧や空気、水、衣服、住居など外的な生活環境に守られて生きる人間存在の側面は、ヤスパースでは現存在と言われる。レヴィナスでは元基を享受することに当たるだろう。

 レヴィナスにおいてはこの段階は、土俗信仰(paganisme)に陥る危険があるとされている。融即的な神秘主義に陥る危険である。以下、この危険を如何に回避するかについての、レヴィナスのたどる道を確認しておこう。

 充足する享受は、同時に未来も享受できるかどうかの不安を抱え込む。「享受は確実性ないし安全性を欠いている」(TI.116/212)。この不安・虚無に「顔なき神々」、土俗信仰が入り込む。顔なき神々へ信仰を捧げ、未来を約束してもらうことで、不安・虚無を解消しようとするわけである。

 「われわれが語りかけることのない顔なき神々、人格なき神々は、享受の自我中心性を取り囲んだ虚無を、享受と元基との親密な関係の只中にしるす。けれども、享受はこのようにして分離を成就するのだ。分離された存在は土俗信仰に陥るという危険を冒さなければならない。土俗信仰においては、分離された存在の分離が証示され、分離が成就されるからである。土俗信仰に陥るというこの危険は、顔なき神々の死が分離された存在を無神論および真の超越に連れ戻すときまで、消え去ることがない」(TI.115-6/211)

 ここで言われる顔なき神々の死が如何にして可能かというと、労働と所有によってである。「不安を抱ける享受は労働と所有に救助を求める」(TI.116/212)。

 労働と所有によって、わが家(chez soi)において、分離が完了する。

 「分離された存在がそれを分離する<存在>に融即することなく、独力で実存しつづけるような完全な分離、このような分離を無神論と呼ぶことができる。…分離された存在は神の外(dehors de Dieu)、わが家で生きる。」(TI.29/73)

「分離された存在の絶対的自存性は家政的実存のまったき充溢のうちで成就されるのである。」(TI.31/76)

 享受段階の土俗信仰の危険を克服するものとして、労働と所有、わが家、がある。そして我が家において、分離が完了し、この無神論(土俗信仰、汎神論の否定)が、倫理的な神との対面を準備する。この、享受→わが家(意識活動の可能性)→他者・神の迎接、という三段階は、ヤスパースでは、現存在(動物的な単なる自己中心的な生き方)→意識一般→実存と超越者(神)、の三段階に当たる。



4.1.1.2 最終的境位としての対面



 しかし、レヴィナスでは明確には見あたらない段階なのだが、ヤスパースは意識一般の段階と、実存の段階と間に、精神の段階を設定する。精神の段階における他者との交わりは、理念を中心とした交わりとなる。一つの理念、目的を中心として人々が関係する。例えば教え学ぶ場としての学校、共に利潤追求するために集まった会社、などである。そこでは一つの目的・理念に基づいて、個々人がそれぞれの役割を担い、目的に向かって活動している。また宗教教団も何か具体的な対象としての、真理やカリスマを中心として集ったものなら、この精神の交わりの段階に当たるだろう。

 しかしやはり、この精神のレベルも、現存在のレベルと同じく、自己中心性の原理に基づいている。この精神のレベルの考察は、ヘーゲルを想定して行われている。ヘーゲルの神が最終的に対面する他者でなく、自己と神との区別が無いのは、その神が自己中心性の原理の上で立てられたものだからである。またそれゆえに倫理的というより抽象的な神観となった。

 ヤスパースにおいて、この次の段階が、実存と超越のレベルであり、レヴィナスにおいては他者との対面である。ヤスパースの実存の定義が、「実存とは、自己自身に対して態度を取り、そしてその際超在に対して態度を取るところの自己存在であり、それはこの超越によって自己を贈与されたことを知り、この超越の上に基礎を置いているのである。(Existenz ist das Selbstsein, das sich zu sich selbst und darin zu der Transzendenz verhalt, durch die es sich geschenkt weiss, und auf die es sich grundet.)」(Existenzphilosophie,S.17/39)とされ、自己と超越者とが別存在として授受する関係にあるのは、一つには精神の段階との区別を意識してのことである。

 ヤスパースもレヴィナスも、この(神、他者との)対面を最終的境位とすることで、融即的な神秘主義を否定する。



4.1.1.3 言語に基づいた倫理的な対面関係



 この対面(face-a-face)という関係は、倫理的な関係である。倫理的な関係は、向き合う他者との間に展開される、客観的な知の関係や、神秘主義的な関係や、美的な関係とは根本的に異なっている。それらの関係は、二者間相互に交わされる場合でも、そこに本当の意味での交わり、出会いはない。知の関係は、支配する関係であり、その視線は、互いに逸れ合うか、対立し合うか、あるいは、一つの目的へ一致することで相互に他者そのものを失うかである。

 また、倫理的な対面関係は、先に触れたように、単なる恍惚感を伴うだけの神秘主義的な神との合一でもない。

 レヴィナスは次のように言っている。

 「倫理的関係すなわち対面(face-a-face)は、神秘的と呼びうるようないかなる関係とも際立った対比をなす。神秘的関係においては、始原的存在の現前化以外の出来事がこの現前化の純正なる真摯さをかき乱したり、あるいはそれを超自然的次元へと昇華し、その結果、ひとを恍惚とさせる意味不分明なものが表出の根源的一義性にまとわりつく。…神秘的関係の対蹠点にこそ、倫理的関係と言語の理性的性格は存している。どんな恐れやおののきも倫理的関係の廉直さ(droiture)を損なうことはできない。倫理的関係は連関の不連続性を保持し、融合を拒む。」(TI.177/307)

 また、似た関係だが、美的な関係は、例えば美的感動に満たされ、美の前にひざまづく。偉大なもの、聖なるものに面して跪くという形式はこれに類似する。しかし「形而上学的関係、すなわち無限の観念はヌミノーゼならざる本体との関係である。」(TI.49/106)と言われるように、倫理的関係[この場合、形而上学的関係]はそのようなものではない。

 また、倫理的関係は、相互に理想化しあった恋人同士が、愛する相手に心を奪われあうだけであるような関係でもない。この場合は、実は相互に出会ってはいないのである。あるいは、愛される側に、愛する側が一方的に没して一体化したり、両者が共に愛し合うことによって、甘えや寛容さによって、区別なく一体化したりすることでもない。

 倫理的関係とは、真の意味で、人格同士が、隠し事なく、裸で、素顔で出会う関係である。隠し事とは、何か言明できる内容のことというより、むしろその人の人生に対する態度、他者に対する態度における隠し事である。

 それは情熱的な実存に根ざしつつ、同時に、言語に基づいた、理性的な関係である。隠し事のなさは、対話に基づいて実現される。

 「私自身が語ることは問いを意味している。私は答えを聞こうとするが、しかしそれはけっして抗議でもなく押し付けでもない。果てしなく答弁することが真の交わりに属している。答えが直ちに実現しないならば、答えは忘れられない課題として残存する」(PhII.66/121)

 そしてこの言語は必ずしも、言われた内容に限らず、その言葉のニュアンス、態度など、その人の自己存在が表明される、全ての事柄を含む。ごまかし無く表明し、ごまかしなく受け取り、ごまかしなく答える、という関係がある。「倫理的関係においては、答えが問いをはぐらかすことはない。」(TI.177/307) この関係において、対話する二者間において一義性が実現されること、しかも二者それぞれの最も深い、裸の実存において一義性が実現されること、この奇跡的な出来事が平等と言われるものであり、これが言語の果たす根本的な役割である。

 また倫理的関係の場では、具体的な他者に対面するなかで、はじめてあらわになる、絶対的な尺度[自分が初めから持っていた、単に観念的な絶対的尺度・神観によって自己を測るのではない]によって自己を倫理的に測り、自己を透明化し、一切の抵抗を脱して、真に自由に交わり・出会いが可能となる。

 



4.1.2 他者と神。ヤスパースの神の下での平等。レヴィナスの他人と直結した神。



 他者と神との関係はどうなっているのだろうか。結論から言えば、ヤスパースの場合「神の下での平等」の思想に基づいており、レヴィナスの場合は自己と他人・神との関係は平等でなく格差があり、他人と神が直結している。

 例えばレヴィナスでは次のように言われる。

 「超越者(transcendant)を異邦人として、貧者として措定すること、それは、人間や所持物に対する目配りを、神との形而上学的関係成就のための不可欠な条件たらしめることである。神的なものの次元は人間の顔にもとづいて開かれるのだ。」(TI.50/106)

 ヤスパースは、超越者を貧者として措定することはしない。

 レヴィナスにおいては超越者・神が、他者のあり方と同様、異邦人、貧者として、了解されているのである。だから本質的悲惨であるところの神・他者に面して、自らに責めを感じ、それに応答しようとすることが、最終的な境位となる。ヤスパースの場合は、超越は、異邦人、貧者として措定されたりせず、より不可知なものである。彼の場合、最終的境位は、徹底的な絶望、全ての意味や希望が断たれることに面してなお、「神が存在するということだけで十分なのだ。(Dass Gott ist, ist genug.)」(Sf.88/189)というものである。「一切が消滅しても、神は存在する。これが唯一の浮動の地点なのである。(Wenn alles verschwindet, Gott ist, das ist der einzige feste Punkt.)」(Sf.88/189)

 それは不可知な絶対者に面しての、根本的な安心(ruhe)を伴った、静寂である。だからといって簡単に、ヤスパースの哲学が、静寂主義だと批判することはできない。全ての理性的活動を、常に根本において支えているのが、この安心なのである。



 ヤスパースの場合、神と他人とは違うのである。

 ヤスパースの超越・神は、他人と直結するような存在ではなく、包括者とも言われるように、自己をも他人をも包み込んでいるような存在なのである。超越との関係は、対面というより、超越によって、存在させられている、という意識のことである。だからレヴィナスよりも人格神からは遠い。

 このような、自己、他人、神の三者関係の違いがあるので、レヴィナスの場合、

「形而上学は社会的連関が営まれる場で、人間同士の連関のうちで営まれるわけだ。人間同士の関係から分離されたいかなる神の「認識」もありえない。<他者>は形而上的真理の場そのものであり、私と神との関係に不可欠なものである。<他者>は媒介としての役を果たすのでは決してない。<他者>は神の受肉ではなく、神の顕現がなされる高さの現出であって、この現出はほかならぬ<他者>の顔によって、<他者>を脱肉化するこの顔によって生じるのだ。」(TI.51/108)

 と言われるように、神に通じるのに他者の顔が不可欠なのだが、ヤスパースの場合、他者との関係が最終的に断たれた場合には、

 「[他者との関係がもはや断たれた場合の]この孤独感はけっして究極的なものではなく、私が真実に孤独を突破しようと試みるならば、その孤独のうちで私は我が友を超越者そのもののうちに生み出すことができるのである。」(PhII.60/114)

 といわれるように、超越者との直接的な関係があり得る。

 このような神観の違いは、どのような、他者との関係を、根本的とするかで、両者の根本的な差異として現れるが、これについては第五章のまとめで触れる。



4.2 親密な二者間の閉ざされた関係と、開かれた社会的関係



 レヴィナスが目指している他者との関係は、開かれた多元的な社会的関係であり、二者間の親密な恋愛関係ではない。恋愛関係は、むしろ第三者を排除するのである。彼は次のように言っている。

 「官能をつうじての恋人たちのあいだに確立される連関は根底的に普遍化に逆らうものであり、社会的連関とは正反対のものである。恋人たちのあいだに確立される連関は根底的に普遍化に逆らうものであり、社会的連関とは正反対のものである。恋人たちの連関は第三者を排除する。恋人たちの連関は親密さ、二人の孤独、閉じた社会にとどまる非公共的なものの典型である。女性的なもの、それは社会に逆らう<他人>であり、二人の社会、親密なる社会、言語なき社会の成員である。」(TI.242f./409)

 恋愛関係は、無言で通じ合い、言語ではなく愛が交わされる関係である。

 レヴィナスは、親密な二人の間で成立する、相互の愛を中心とした、恋愛関係をモデルとする関係では、あらゆる人間を結びつける社会的関係というのは不可能と考えたのだろう。どんな他者とも結びつくことができる、自己の態度。しかも一切の暴力を排除した、態度。それは、一切を喜んで自分の責任に帰する態度でしかありえないだろう。



 では、妻との親密な関係をモデルとしているヤスパースの実存的交わりにおける、他者との関係はどうだろうか。先に述べたように、実存的交わりは、無言で通じ合う言語無き関係ではないのだが、しかし、ある種の閉鎖性を伴っている。

 「交わりの意志に対して自己を拒絶することが私の責めであるように、現実の交わりに踏み入ることはその他の可能性を排除することを結果として伴う。私はすべての人間を交わりの友として獲得し得ない。…」(PhII.60/114)

 実存的交わりは、そのつど、代理され得ない具体的な他者との関係である。この関係は、第三者を意図的に排除しようとするものではないが、第三者が入り込む余地のない関係である。そこでは、抜き差しならぬ愛しながらの闘いが展開されているのであり、第三者まで交える余裕はない。

 ヤスパースは、この二者間の実存的交わりの関係を基盤として、開かれた広範な他者との社会的関係について考えている。しかし、やはり何より重要であり、関係の出発であり、究極目標であるのは、この二者間の実存的交わりの関係である。



 そして、この関係をすべての人との間で結び得ないということが、責めとなるのである。

 「交わりの存在意識の根源には、その意識の現われの客観的狭さが避けられない責めとして結び付いている。」(PhII.60/114)

 これは『戦争の罪を問う』と同じ論点である。

 この意味での責めは、レヴィナスの場合ありえないだろう。なぜなら、他者への責任はまったく同等に生じうるのであり、ある一人の他者には応答しえたが、ある他者には応答しえなかったので、より多く負い目があるとはいえないだろうから。このヤスパースとの違いは、レヴィナスの場合には他者が、具体的な他人というより、むしろ、神に直結しているというところから出てくるのだろう。





4.3 死について



4.3.1 自己の死



 ヤスパースは、「二重の死」(Der zweifache Tod)について語る。それは死の恐怖の二つのあり方として現れる。

 「ひとつは、本来的存在を失った現存在(Dasein, das im Nichtsein der Existenz doch ist)という形態においてであり、もうひとつは、徹底的な非存在(radikales Nichtsein)という形態においてである。」(PhII.227/311)

 後者の死は、ハイデッガー的な意味での死である。この後者の死の考察において、ヤスパースが真にハイデッガーのような徹底的な非存在、無、について考察できているかどうかについて疑義の残るところがあるが、ここでは立ち入らない。

 ここで、レヴィナスとの比較で問題としたいのは、前者の死である。ヤスパースはここで、後者の死の、「死ぬことの恐怖」に対し、前者の死の「死ねないことの恐怖・苦しみ」について語る。この死ねない恐怖は、レヴィナスのイリアに類似している。

 「実存が存在しなくてもなお存在する現存在は、可能性も活動も伝達ももたない涯しのない生存の恐怖となる。私は死んでいるのに、しかもこうして生きねばならない。私は生きていないのに、しかも可能的実存として、<死ぬことができない>という苦悩を受ける。徹底的な非存在の安静は、このような永続する死の恐怖に対する救済であるだろう。」(PhII.227)

 実存が無いのに、現存在だけがありつづける不安・恐怖について語っている。そしてまた、不安・恐怖が感じられるのは、自己が単に現存在であるからでなく、可能的に実存でありつづけるからであり、現実的に実存しなければならないという責めから逃れられないからである。

 現存在の自己中心主義を超えて、実存することを願う可能的実存であるにも関わらず、現存在の自己中心主義から逃れられない苦しみ。

 ヤスパースは、この死ねない恐怖から如何に逃れられるかについては、触れていない。しかしレヴィナスの場合、この死ねない恐怖、存在の災禍は、自己中心主義者としては死ぬこと、つまり他者のための身代わりに死に得るということを介して、脱出の道が開かれるのである。自殺することも、自然に死ぬことも、自己中心主義を超えることではない。

 「忍耐は私が誰かによって(par)、誰かのために誰かの代わりに死にうるような世界においてのみ生起する。このことは死を新たなコンテクストにすえ、死という概念を変容せしめる。つまり、死は私の死であるという事実に由来する悲愴な味わいが死から拭い去られるのだ。換言するなら、忍耐する意志は自我中心性という殻を破る。」(TI.217/370-1)

 自我中心性を越えるということは、究極的には自己の死を越えて、他者のために死ぬというところまでいくわけである。



4.3.2 他者の死



 ヤスパースは「最も身近な人の死(Tod des Nachsten)」について考察している。私が決定的な実存的交わりを結んだ、愛した他者は、死んでも「いつまでも実存的に現前し続ける」。(PhII.222/303) もちろん生前と同様に現前し続けるのではない。愛した人の死は「胸がきしむような憧れ(vernichtede Sehnsucht)、別離の身にしみ入るような堪えがたい思い(das leibhafte Nichtertragenkonnen der Trennung)」(ff.)を伴う。

 しかし、むしろそれだからこそ、愛した人の掛け替えなさ、その愛した人の<存在>を、痛感するのである。この観点はレヴィナスの他者観の基本でもある。他者の不在によって、むしろ逆に、他者の存在そのものが理解されること、他者の現前に対して私が常に遅れてしまっていること、隔時性、過ぎ越し、などのことがらの考察が行われる。

 しかしヤスパースの場合、他者の死は他者の実存の消滅ではない、というようなことははっきりと言ってはいない。他者の死によって明確になることは、他者の実存というよりむしろ、それまでの他者との実存的交わりによって明らかになってきたところの、[人というものが本質的に孤独でなく]他者と共にあるということ(共存在)や、超越である。「実存は、他人の死を介して、超越の中に住まうようになったのである」(PhII.222/303)とも言われる。

 そして、他者の死によって、「消し去ることのできない苦痛の根拠に基づいた、いっそう深い明澄な境地が、可能なのである。」(ff.)



4.4 責任について



 レヴィナスにおいて責任の根拠は何なのだろうか。

「(歴史の「彼方(au deja')」としての)終末論的なものは諸存在をしてその十全なる責任に目ざめさせ、責任を果たすようにこれらの存在に呼びかける。」(TI.XI/17)

 といわれているように、彼の場合、いわば世界内的なものの彼方(他者、神)との関係のなかで責任が発生してくる。

 ヤスパースにおいても形而上的責任の「審判者は神だけである」と言われているように、責任発生の基準、応答の基準は神である。

 しかしまた、ヤスパースは、具体的に他者との実存的交わりを紆余曲折の過程を経つつ実現できた者のみが、形而上的責任を自覚できるという前提条件をつけた。

 この点はレヴィナスにおいても、<家>において迎える女性の他者によって形成される親密さを、真の他者との対面の前提条件としているので共通する。

 この流れは、ヤスパースにおいてもレヴィナスにおいても共通するのである。

 既にして愛されているということ、生かされているということ、自らの受ける恵みが、決して自分の力によるのではないということ。水や空気や食料がふんだんに与えられているという元基のあり方においてもそうだし、最終的に実存的交わりを成就するにも、自分たちの努力以上のものが常に与えられて成就するのである。[「(実存的交わりの成就には)私に依存しなかったものが常に付け加わらねばならない。」(PhII.60/114)] というように、他者に比べ、不等に愛されていること、愛される者として選ばれているということ、このことは自らにとって責めである。

 より詳しく見れば、負い目が発生する理由としていくつか考えられる。

 1、実存的交わりを結んでいる親密な他者に対する私の姿勢と、他の他者に対する私に姿勢に差異があり、私が他者を不平等に扱ってしまっているゆえに、である。特にヤスパースの場合。

 2、他者との親密な交わりが不思議にも、贈与、幸運、によって可能となったり、生活面でも、例えば裕福な国に生まれて恵まれているゆえ、そうでない他者に対して負い目があるということ。特にヤスパースの場合。レヴィナスにもそういう部分がある。

 3、すでにして存在するということ、元基において恵まれているということ、このことゆえに、他者との差異はないが、すでにして神に対して負い目があるということ。とくにレヴィナスの場合。

 このように、大筋においてはヤスパースとレヴィナスで共通するものがある。違いが出るのは、具体的な、そのつど唯一的な他者との関係においてである。ヤスパースは、自己にも他者にも同じように責任が課せられるのに対し、レヴィナスは一方的に自己が負う。



4.5 例外と犠牲について



4.5.1 自己反省によって、例外でありうる



 ヤスパースは全体性に還元されないものとして、「例外(Ausnahme)」を挙げている。例外は、人格として、自己であるか他者であるかである。この例外は、世間の中では例外として異質なものであり、犠牲者とならざるをえない。

 「例外とは普遍的で抽象的な否定的なものの類ではなくして、歴史的に具体的な一回性として否定的なものにおいて同時に肯定的なものである。この肯定的なものは本質的に犠牲(Opfer)である」(VdW.750f./4-314)

 と言われている。具体的に、イエス、ソクラテス、キルケゴール、ニーチェなどを挙げている。実際、歴史上の多くの、常に独創的で自己に忠実であろうとした哲学者は同様な運命をたどった。またヤスパース自身も、自己自身に誠実であろうとすることで、戦時中も、戦後も、常に社会と対立し、孤独な立場に追いやられることが多かった。例外と犠牲との関係の思想は、彼自身の体験にも根ざしているのである。

 ヤスパースによれば、例外が例外であるのは、単に存在することだけによるのではない。「例外は、例外が絶えず自己と自己の意味に関して反省するときにのみ、存在している。例外は、…内面的に反省された、反省を通じて真理に関係づけられた、自己自身を探求する例外的存在である」(VdW.752)と言われている。

 他者が、自然に在るがままにでは、例外ではありえないというのはヤスパースらしい思想である。他者は他者で、自己自身であろうと努力することが必要なのである。レヴィナスは他者に要求はしない。

 

4.5.2 例外の真理のありかた



 ところで、そういった犠牲者としての例外は、私にとっては何なのか。「例外はわれわれにとっての真理となり得る」(VdW.758/4-331)と言われている。しかし、「例外は燈台のように道程の限界に立つものである。例外は形而上学的な諸根拠に基づいて開明し、方向を与えるものであり、例外は道程そのものを要求したり、示したりしないのである。例外は、われわれに近づきながら、開明においてわれわれを同時に突き放し、われわれ自身に帰還させるのであり、これによってわれわれは一層よく、一層真実に、そして一層明らかに自己自身の道を見出すようになるのである。」(VdW.758/4-331)

 例外は、権威として道を指し示してくれる教祖のような存在ではない。聖者も、そこに身を委ねるべき対象であったりするのではない。聖者も、例外としてむしろ常に欠陥であることが特徴的なのである。

 「しかし人間のこのような形姿は、同時に特殊な人間存在の形姿であり、この形姿はみずからの固有の偉大さを法外な欠如によって可能にしているのである。イエスは例外者である。イエスはいかなる完全な人間でもない。何故なら、イエスは世界のなかの現存在の諸実在、国家、経済、結婚、文化財の諸領域のなかで歩み入らないからである。」(VdW.854f./4-520f.)

 この聖者観においても例外者同士の交わりというヤスパースの思想が貫かれている。



4.5.3 犠牲と援助



 犠牲とは何のための犠牲なのか。先に少し触れたが、他人のために「方向を与える」ということがある。しかしせいぜいそれだけなのであって、「いかなる人間も本質的には他人を助けることはできない。」(VdW.847/4-506)のである。ここにおいてレヴィナスの「身代わり」の思想との差異は大きい。ヤスパースは、人間の間で生じる援助について二つ挙げており、一つは実践的技術的行為による場合、もう一つは、「誰もが実際のところそこにおいて他の存在と共にあって自分自身を助けるような交わりのなかで援助が生じている場合」である。この二つの概念は、ハイデッガーの「現存在配慮の代行」と「手本を示す」の二種類に対応するといえる。後者は手本を示す、のでなく、交わりを主体にしている点でヤスパースらしい。しかし、やはりどちらも、レヴィナスの「身代わり(substitution)」、「人質(otage)」の思想とは根本的な違いがある。



 しかし身代わりも、身代わることによって、自我が消滅するのではなく、第二章で見たように、むしろそれによって真の意味で自我が定立されるのであるから、ヤスパースと共通する点があることを忘れてはならない。

 こう考えると、死が自己の死としてしかありえず、自己が単独化される契機として考えたハイデガーの思想とも共通する。ハイデガーが問題にした自己は、自己中心的な存在ではなかった。



4.6 ニヒリズムと他者



4.6.1 ヤスパースの場合



 ヤスパースもレヴィナスも、ニヒリズムを否定的なものとして、克服しようとする。ニヒリズムは他者(他なるもの)との関係が断たれたところで生起するといえる。他者との関係を、非常に重視する、ヤスパースやレヴィナスは、ニヒリズムの虚無感、倦怠感に、他者への裏切りを感じたのではないだろうか。

 例えば、

 「しかし私が可能なる交わりを、事実的にせよ不用意からにせよ裏切り、しかもその踏まんがもはや交わりへの意志に転化しないならば、私は虚無のうちへ踏み込む。そのとき不満はあたかも私が存在から外へ転落したかのような(aus dem Sein herausgefallen sei)意識となるであろう。」(PhII.56/110)

 ヤスパースはもともと虚無感という意味でのニヒリズムには無縁な人だった。幼い頃から親子関係は抜群によく、夫婦関係も理想的だった。友人は比較的少なかったかもしれないが、真の友人といえる友人が何人かいた。彼は他者との関係の中で、生きてきた。また、他者との関係があって始めて生きることができることを身を持って感じていた。そういう彼は、人生に虚無感は感じなかった。後に研究して著作を書いたニーチェについても、若い頃は反発を感じたらしい(※1)。ニヒリズムは彼の基調とは相容れなかった。またハイデガーの思想に対する抵抗感(※2)も、このことが深く関係しているのではないだろうか。

 彼は、ハイデッガーの「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか(Warum ist uberhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts?)」の問いを根本的なものとは感じなかった。彼にとってはそれは、第一義的な問いではない。存在することの無理由性の自覚、ニヒリズムの空しさ、を介して存在覚醒するというハイデッガーの道について、ハイデッガーの名を挙げはしないが触れている、箇所がある。

 「空しさは、あらゆる内容をもたらす包括者を呼び起こすことにより、あらゆる可能性の覚醒として、その力をもっている。」(『啓治に面しての哲学的信仰』445頁)

 彼はニヒリズムの空しさから開かれる深い可能性を認めてはいる。しかし、

 「しかしその思想は、単なる可能性という空虚のうちにとどまり、あたかも空しさがすでに現実性であるかのように、それを享受するようそそのかす」(ff.)

 と述べており、ニヒリズムの空しさは、根本的に退けられるべきものだと考えている。存在することの無理由性、空しさをそのまま受け入れ引き受けるというような道は退けているようである。

 こうした、ニーチェやハイデガーへの違和感は、彼のニヒリズムへの違和感が原因なのではないだろうか。

 世界の無意味性をそのまま認めつつ、ニヒリズムとともに存在覚醒するというハイデガーの道は、ヤスパースはとらなかった。彼は最後まで、他者との関係に帰る。超越との関係であり、また実存的に交わる他者との、信頼関係、愛の関係、責任関係を守り通す。[絶望は罪である。]

 ヤスパースにおいては、実存的交わりにおける他者との親密な関係があった。他者との信頼関係。たとえそれが断たれるようなことがあろうとも、超越者を友とすることができるという。また、『戦争の罪を問う』の最後の部分でも、『哲学』の最後の部分でも、最終的に「神が存在するそれで十分だ」という神の存在の確信が表明される。他者・神との信頼関係が残り続けるのである。最初に得た確信を、最後まで守り抜くこと、「(信仰とは)望んでいることがらを確信」(へブル人への手紙 11.1)するという原理がヤスパースにつらぬかれている。他者、神との間の信頼関係、これが最初から最後まで貫かれており、戦争体験を通じてもこの信頼関係に揺るぎはなかった。戦争体験は、彼に根本的な変革をもたらしたのではなく、むしろ、揺さぶりを通じて、根を強化した体験だった。



4.6.2 レヴィナスの場合



 レヴィナスは、ニヒリズムが人間にとって最終的に不可避な、根本的な状況であるとは考えなかった。そう考えた理由は二つあると思われる。一つは、一般的にマルクス主義者が行うニヒリズム批判と同じ形のものである。

 「はじめに、満たされた住人ありき。たとえ「空虚」が感得されたとしても、この「空虚」は次のことを前提としている。つまり、この「空虚」を自覚せる意識は、享受の只中にすでに身を置いているのだ。…「空虚」はアタラクシアより”良きもの”たる充足の歓喜を先取りする。」(TI.118/216)

 ニヒリズムの前提条件に享受、経済的条件の段階があることを指摘することで、ニヒリズムの絶対的先行性、特権性、ニヒリズムをを根本問題として設定することを、否定する。

 もう一つは、存在と無の問いの次元の背後に、決して無化されない、他者への責任の次元をもってくることによってである。彼はそうして、ニヒリズムの不可能性という立場をとったことになる。

 レヴィナスの思想がニヒリズムでありえないのは、他者を決して無-視することができないというのが彼の思想の根本的前提だからである。

 また、彼のイリアの思想は、深いニヒリズムを描いているといえる。何の希望も見出しえない夜を永遠に生き続け(永劫回帰)、耐え続けなければならない世界。ヤスパースが、実存する可能性が断たれているのに現存しつづけなければならないという、死の苦しみとして描いた世界。しかし究極的には、このイリアの夜は、他者によって脱出可能となる。



4.6.3 まとめ



 ヤスパースでもレヴィナスでも、結局、他者(他なるもの)との真なる関係が断たれるところにニヒリズムが発生すると考えられている。他者との対面・交わりという究極的境位において、ニヒリズムは克服されるのである。

 他者との関係が本質的に断たれること、ハンナ・アレントはこのことを Verlassenheit, loneliness(見捨てられていること、孤立)と言った。また他者との関係が本質的に結ばれている中で、不可欠な要素としての他者との分裂のことを Einsamkeit, solitude (孤独)と言った。

 ヤスパースもこうした分類をしている。例えば、

 「交わりの欠如における絶対的孤独と、最も身近な人の死によって生じた孤独とは、根本的に違ったことである。前者は、黙りこくって交わろうとしない欠如であり、こうした意識の中では、私は自分自身を知ることがない。これに反して後者の場合には、かつて故人との間で現実となった交わりのどの局面によっても、絶対的孤独は、永久に放逐されてしまっている。私が本当に愛した人は、いつまでも実存的に現前し続けるからである。」(PhII.221/303)

 この文で「交わりの欠如における絶対的孤独」がアレントの「孤立」に当たり、後者の「最も身近な人の死によって生じた孤独」がアレントの「孤独」に当たる。

 孤立において人は、

 「…私が可能なる交わりを、事実的にせよ不用意からにせよ裏切り、しかもその不満がもはや交わりへの意志に転化しないならば、私は虚無のうちへ踏み込む。そのとき不満はあたかも私が存在から外へ転落したかのような意識となるであろう。」(PhII.56/110)

 というようなニヒリズムへと落ち込む。

 一方、実存的交わりにおいて他者と真に出会うとき、自分であることの逃れられなさを超えて、自己の外に立ち、他者と共に存在する自己となること、このことを知ることはそのまま超越を感得させる。[相互依存関係の一体化が或る無制約者を感得させる(PhII.71/126)]

 そのとき相互の存在は、無の深淵に基づいて在るのではなく、超越に基づいて、超越の内にある。こうして自己と他者との真の出会いにおいては、根本的な無限(infini)、無制約性(unbedingtheit)を感得するのである。



 ニヒリズムとは、他者の不在だと考えてきた。他者の他者性(レヴィナス)、他者の唯一かけがえなさ(ヤスパース)が忘れ去られ、他者が慣れ親しまれ過ぎて、当たり前のもの、どうでもいいものとして、無関心に対されてしまう状態が、ニヒリズムの状態だといえる。ただこの他者性、異質性を、存在することそのものの異質性の覚醒として、ニヒリズムと対するのがハイデッガーであり、この点に両者とハイデッガーとの差異がある。



第5章 まとめ



5.1 共通点



 先ず、受けたものを与える、という大きな流れから、レヴィナス、ヤスパースの共通点を確認しておく。

 レヴィナスの思想を大まかに描くと、先ず、イリアの夜の責めの次元があり、そこからの逃走として、存在者・存在の次元があり、最後に欲望と責めの次元がある。

 レヴィナスにしてみれば、ハイデガーは第二の領域しか扱っていないというわけである。存在者・存在の次元が、限りなく与える「存在」から恵みを受けることであり、吸うことに息切れする主体は、今度は欲望と責めの次元において吐くことをするのである。

 ヤスパースの思想についても、この呼吸と同様なことが言える。ヤスパースの理性は実存に基づく。そして、「実存とは、…この超越によって自己を贈与されたことを知り…」(Existenzphilosophie.17/39)と言われる。また、超越とはヤスパースにおいては存在そのもののことであるから、実存とは(存在そのものによって)存在させられていることを知っている存在のことといえる。何の理由もないのに、奇跡的に、不思議にも、存在するということ、特別に存在させられているとさえ思えるこの奇蹟的な出来事(贈与)を理解していること、自らの存在を知っていること、これが実存のあり方である。

 そして、この存在の恵みを知る「実存」に基づいて、今度は逆に、どこまでも他者へと赴いていこうとする「理性」を働かせるのである。



 また、今まで見てきたように、親密な他者との関係を介して、社会的な他者との関係を問題とするという流れも共通している。

 全て、他者、特に他人との関係を通じてのみ、ニヒリズムも克服され、また、神や真理へと通ずる道が開かれるという点でも共通している。



5.2 差異点



5.2.1 レヴィナスの一方性



 根本的差異の原因の一つは、レヴィナスが自分にとってどう他者があらわれるかの観点に限定していることにあるといえる。

 それに対し、ヤスパースは、どの哲学が交わりを可能にするかを重視しているのであり、そのためには「自己の他者に対する態度」の問題を超えて、他者のあり方をも問題とする。



5.2.2 親密な他者と、社会的他者という違い



 また、ヤスパースとレヴィナスの根本的な差異は、前者が親密な他者との関係を、後者が社会的な他者との関係を、それぞれ重点的に扱っていることに由来するとも言える。

 先ず、ヤスパースの場合を見てみよう。

 親密な他者との関係、実存的交わりは、社会性の根拠・前提にもなる、不可欠なものである。それを通してしか、超越や実存といったものが顕にならないからである。最終的には、超越によって贈与されていることを知りつつ、二者間の実存的交わりを軸として開かれた、多元的な社会的関係というあり方こそ、彼の理想とする形であろう。そしてこうした開かれた社会性の次元は、彼がよく主張した「理性」によって切り開かれていくのだろう。彼は、『真理について』においては、実存の交わりと理性の交わりを区別している。

 「実存の共同体としては、この王国は、歴史的に根拠づけられている状態のなかで無制約的、非代替的、排他的に(ausschliessend)実現されるところの、客観的に適切には観察しえず、また決して証明しえない結合体である。

 理性の共同体としては、この王国は、実存の内に根拠づけられている、開放された存在(Aufgeschlossenseins)の普遍性であり、また人間存在そのものの連帯性である。」(VdW.379/2-295)

 具体的にこの二つの交わり・共同体がどう区別されるのかは難しい問題なのだが、それぞれ、二者間の交わり・閉ざされた深さの交わりと、開かれた社会的な広さの交わりに対応すると見ることもできる。

 ヤスパースは、理性は実存に基づくという。このことは、二者間の閉ざされた実存的交わりの中で、両者が超越に基づいて存在していることを知り、その上で、より社会的な複数の人間同士の理性的な交わりの関係が開かれるということを指していると言える。



 一方、レヴィナスは、何より多元的な社会的関係がいかにあり得るかを重点的に問うている。自分を殺そうとさえする他者と、関係を結んでいくためには、実存的交わりのように他者にも相互に自己自身たることを要求するというようなことはもはや不可能である。だから、全てを自己責任として引き受けていくという道しかない。それゆえ、他者の絶対的優越性が主張される、という面がある。

 そこでは、審判する他者との関係に焦点が置かれる。そもそも人間は、心を開き合って交われば、必ず愛し合えるというような善良な存在ではない。負い目ある、罪(原罪)ある存在なのである。その原罪を持った人間同士が交わることが可能となるには、他者に絶対的に仕え、責任を全面的に負う、という償いの道が不可避である。

 この場合は、目の前の他人を、絶対的な他者として認めることに出発するのだがこのことは、他人をすでに神として見て、仕えていくこととほとんど変わらない。[この点はヤスパースが交わりを通じて段階的に超越を認識することとの差異がある。]

 こうした関係の差異から、責任問題についての差異も出てくると考えられる。ヤスパースの親密な二者間の実存的交わりにおいては、両者がともに自己を賭けて実存的交わりに向かわねばならず、それは一方だけの責任に帰することはできず、共同して責任を負い合い、時には他者の責任を問い、共に励まし合いながら交わりへと向かう。

 レヴィナスの場合は、一方的に自己が責任を担わなければならず、自己を殺そうとする他者を前にして、命を差し出しもする。



5.2.3 最終目標の差異



 レヴィナスにおいては、これまで何度も説明してきたように、開かれた社会的関係が最終目標なのである。

 一方、ヤスパースにおいては、実存的交わりを土台として、開かれた社会的関係を結んでいくこと、人間の共同体を形成することが、確かに一つの目標としてある。しかし、それは唯一の最終目標だろうか。実存的交わり、最も深い交わりを介して、超越を確認すること、不退転の境地を得ること、これが究極的な事柄ではないだろうか。実際、主著『哲学』の最後も、そこで終わっている。レヴィナスは、絶対的な不平等性をへて社会的関係の実現するとき、平等が創設されると言った。この平等の成立の後にこそ、平等、同等性を絶対的前提条件とするヤスパースの実存的交わりが可能である。この意味ではヤスパースの実存的交わりは人間関係の最終的な到達点でもある。

 こうした最終目標の差異が、両者がそれぞれ如何なる他者との関係を究極的なものとして扱ったかの差異として、現れてきたのではないだろうか。





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<注>

※1 宇都宮芳明著、『ヤスパース』(清水書院、1962)55頁、参照

※2 『存在と時間』は通読さえしていたかどうか定かでない。ヤスパース著、『ハイデガーとの対決』(紀ノ国屋書店、1981)14頁。ハイデッガーの思想に対する違和感については多くの箇所で読みとれる。

 

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▼参考文献



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(『戦争の罪を問う』、橋本文夫訳、平凡社ライブラリー、1998)

K.Jaspers, Philosophie I-III, Springer-Verlag 1973

(『世界の名著75 ヤスパース・マルセル』、小倉志祥他訳、中央公論社、1980。『哲学 (I-III)』、武藤光朗他訳、創文社)

K.Jaspers, Von der Wahrheit, Serie Piper(1001)4.Aful,1991

(『真理について(1-5)』、林田新二他訳、理想社、1976-1997)

K.Jaspers, Existenz Philosophie, Walter de Gryter & Co.,1964

(『実存哲学』鈴木三郎訳、理想社、1961)

ヤスパース著、林田新二訳、『運命と意志』、以文社、1972

ヤスパース著、上村忠雄・前田利男訳、『世界観の心理学(上・下)』、理想社、1971

ヤスパース著、草薙正夫訳、『理性と実存』、理想社、1972

ヤスパース著、重田英世訳、『啓治に面しての哲学的信仰』、創文社、1986

ヤスパース著、渡辺二郎他訳、『ハイデガーとの対決』、紀ノ国屋書店、1981

林田信二著、『ヤスパースの実存哲学』、弘文堂、1971

宇都宮芳明著、『ヤスパース』、清水書院、1962

E.Levinas, totarite et infini, martinus nijhoff publishers,4ed,1984

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E・レヴィナス著、西谷修訳、『実存から実存者へ』、講談社学術文庫、1996

E・レヴィナス著、合田正人訳、『存在の彼方へ』、講談社学術文庫、1999

合田正人著、『レヴィナスの思想-希望の揺籃』、弘文堂、1988

合田正人著、『レヴィナスを読む』、日本放送出版協会、1999

港道隆著、『レヴィナス』、講談社、1997

熊野純彦著、『レヴィナス』、岩波書店、1999 

古東哲明著、『<在る>ことの不思議』、勁草書房、1992

西谷啓治著、『ニヒリズム』、弘文堂、1949

渡辺二郎著、『ニヒリズム』、東京大学出版会、1975

岩田靖夫著、『神の痕跡』、岩波書店、1990



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