ドフトエフスキ『カラマーゾフの兄弟』の、大審問官のシーンの要点とその是非
人口比的に、天上のパン(精神的なもの)を優先できる人と、地上のパンを優先してしまう人の比が1:10くらいであるということ。
天上のパンを優先できる人というのは、お坊さんの一部だったり一流ビジネスマンの一部だったりするでしょう。
割合としては、宗教界でも世俗でも、ほぼ変わらないとおもいます。
地上のパンを優先し、本質的に精神的なものを優先できない層の人は、自分の足で立てず、他助論的な、いわゆる(個人や定型の道徳への)「信仰」という「依存」をするしかなく、そのような形で「救われ」たとしても、結局これは不自由でしかないこと。
それで言わんとするところは、Aor Bで、Aは不可能なんだよ、ということです。
私としても、Bは決して解決策ではなく、決して理想でもないこと、子供の、甘美な、親に守られた依存的な平和な世界に真の幸福や真実はないというのには全く同意しています。
しかし、厳しい求道的な形で、Aを追求する方法しか道はないかというと、決してそうではなく、
完全な意味ではAなのではないかもしれませんが、Aの道を、比較的楽しくワクワクしながらチャレンジングに進んでいる方も、少数ですが、たくさんおらるかと思います。
また、それを達成可能にする知識体系やノウハウも(一般的な、能科学とか、伝統的な宗教とかではないですが)存在していると思っています。
しかしドフトエフスキーは、大審問官の前の部分で、無残に殺される無垢な子供についての理不尽さを述べたり、
アリョーシャのゾシマ長老への盲目的なまでの依存に対して肯定的なコメントをしたり、
エモーショナルな方向を肯定するバイアスを、ある程度持っているのだなと思います。