「人の目が気になる」心理というのは、通常、あまり良くないものである。
それは、自分が自由に生きておらず、「他人の人生を生きている」ことを意味する。承認欲求が強すぎる状態である。
しかし、この「人の目が気になる」心理が、究極的な形態にまで発達して、逆に、理想的な「人間観察力」になってしまったという、面白い例がある。
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中国の、春秋戦国時代、斉の国に生きた、淳于髠(じゅんうこん)という人である。
生まれは奴隷。そして、顔がどうしようもないほど醜く、身長は150センチ(五尺)以下。体も弱いので、もっぱら雑用をしていた。
あるとき、主人の命令で、女奴隷と結婚させられた。奴隷をふやすためである。
そのとき女奴隷は、初めて淳于髠を見て(なんだ、こんなちんちくりんの醜男(ぶおとこ))と思った。
すると淳于髠は、「おまえは、なんだ、こんなちんちくりんの醜男、と思っているだろうが、これは主人の命令なんだ。おれを恨んでくれるなよ」と言った。
ずばり心の中を言い当てられて、妻となる女奴隷は、どきりとしたが、しばらくして、
(頭は悪くなさそうだわ。でも、こんなご面相では、どんな子が生まれることやら)と、心配になった。
すると淳于髠は、「おまえ、心配することは無いよ。そりゃ、おれは醜男だが、おまえはきれいだよ。だから、ひどい子は生まれないだろう」
妻は驚いて「なぜあたしが子供のことを心配しているとわかったの?」
淳于髠「だって、お前の顔にそうかいてある」
妻「あなた、それどこで習ったの?」
淳于髠「それとは?」
「人の心を読む術です」
「べつに習ったのじゃない、自然におぼえたんだろうな。・・・」
彼は、非常に貧乏な境遇で、醜男でチビで、周りから愛されず、結果として、小さい頃から、生存していくためには、相手の顔色をつねに伺いながら、うまく付き合っていかなければならなかった。
・・この人は飯をめぐんでくれるだろうか?
・・この人はおれを殴るかな?
・・どうすれば人からゼニをもらえるだろうか?
少し判断を間違えれば、めぐんでもらえるチャンスを逸する。あるいは殴られる。
人間、危機的な環境下で、本当に生き残っていくということに、正面から向き合ったならば、本来の能力、知能、観察力が、フル稼働するものなのかもしれない。
このことから得られる教訓としては:
1)環境がある程度危険であると、一番重要な問題に目を向けるようになったりする
いわゆる火事場のくそ力。
追い込まれて環境における危険が大きいと、些細な問題は、問題ではなくなる。
淳于髠の場合、「人の目が気になる」といったようなレベルの小さな問題は、問題になりえなかった。「生き残る」という大きな問題に一生懸命だったから。
(ただ、必ずしも、環境が危険である必要はない。大きな目標があり、その達成を心から欲している場合も、些細な問題は問題ではなくなる。)
人は、大きな問題(課題)がないと、自分で小さな問題を作り始める。
2)とことんまで、正面から、生きようとすること
淳于髠は、奴隷出身で、チビで、醜男であったが、決して、社会を責めたり、誰かを恨んだり、しなかった。そんな脇道にそれるより、いかに生き残るか、という主要問題に、正面から取り組み続けた。
不必要に敵を作らず、本当に生き残るためには、「自分」も「相手」も利益になる答えを、導き出す必要があると認識し、そのために必死の努力をしていった。
上記の、妻との会話にも、妻に対する、素朴な優しさが垣間見られる。
ただ生きるために、「ものごとをありのままに観察する力」を身につけ、ただ生きるために、自分も他人も生かす道を、素直な心で考え出す。
この時代は紀元前四世紀。後世の、重苦しい道徳観、善悪観は、まだ存在せず、素朴な生存への意志、素朴な合理性が、しっかりと存在していた。
3)観察するために観察する
「人目が気になる」、あるいは「人からの評価が気になる」状態というのは、人に対して「ものすごく意識して」いながら、自分がヘンに思われないか心配しており、自己防衛のために心配しながら意識しているだけ。結局自分の幻想の中で、架空の、「他人からの敵対心」について、あれこれ悩んでいるわけで、結局、全然、「周りのことを意識できていない」。
観察しようと、相手の方を意識しようと、ベクトルを外へ向けようとするが、そのベクトルは途中で自分自身に向かい、自分自身の架空の世界とコミュニケーションをしている。
自分自身を守るため、自分自身に都合のよい内容を得るために、観察しようとすると、実際の、相手の状況は観察できない。
ただ観察するために、観察することができれば、そこから何かを知ることができる。読心術というものの根幹は、そういうものである。
4)生きるために、「・・でなければならない」は、不要である。
「人目が気になる」場合、①生きるためには、→②他人に認められたり、よく思われたりしなければならない→③周りに追従、人目が気になる ということになっている。
①に対して、②を作り出すことは、「・・でなければならない」を作り出すこと、「固定観念」を作り出すことである。
人は、生きることに対して、固定観念を作れば作るほど、自分の思考と行動を、狭くしていき、自らの首をしめていく。
生きるためには、相手に「よく思われる」必要はない。ただ相手の考えを「知る」必要はある。
生きるために、ありのままに物事を観察し、自由に、理性と創造性をフル活用できてはじめて、人は有能であることができる。
淳于髠は、そういった才能を活かして出世していった。そして、有能で創造性に富んだ、当時最先端の学者(稷下の学士(しょっかのがくし)と言われる)たちの学院の、学院長となった。
春秋戦国時代の後半、いわゆる戦国時代。さまざまな有能な人間がしのぎを削って、戦争に勝つ方法、政治的駆け引きに勝つ方法、国家のベストな統治法、そういったもののレベルを実地のトライ・アンド・エラーの中で、急速に高めあっていた。いわゆる百家争鳴(ひゃっかそうめい)の時代である。
最先端の、多種多様な、思想や技術を担う学者たちが、自由なディスカッションを行っていた学院が、当時中国で最も発展していた都市であった、斉の都、臨淄(りんし)にあり、その学院長が、淳于髠であった。
生きるために、ものごとをありのままに観察し、素直な心で理性的に判断する能力を身につけてきた淳于髠は、この学院長となるのに打ってつけの人物だったといえる。
彼は、「優れた人間観察力」以外に、特に専門分野があったわけではなく、まさにそれだけによって、個性際立つ、最先端の文化の担い手たちの、よき理解者、コーディネーターとなって、当時の文化の発展に、大きく寄与した。
彼はまた、斉の王に仕え、人の心を読む能力と、人の心の琴線に触れるコミュニケーション力によって、王を正しく導いたり(「鳴かず飛ばず」の故事成語は彼による)、重要な外交を成功させたりもした。
それらのエピソードは、下記参照文献の本、『史記』などに記載されています。
徳川家康なども、歩んできた人生と、その結果獲得した能力について、淳于髠と共通している点があるように思われる。幼いころから、今川氏、織田氏の人質として過ごし、強者に挟まれた中で、強者の顔色ばかりをうかがってきた。死の恐怖と隣り合わせの生活において、ある種の、健全な意味での人生への諦観、人生と人間への達観のようなものを獲得していったと思われる。彼は、決して卑屈にはならず、ただ生き残るために、優れた人間観察力と、極度に合理的な思考力・判断力を身につけていった。
総じて、一番下からたたき上げで這い上がっていった人には、そういう部分はあるようですね。
参照文献:
『小説十八史略(一)』陳舜臣著、講談社文庫 P284(淳于髠の語について)
(一部引用し、一部簡略化しています)